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【豊臣秀頼】放任型リーダーシップが大阪の陣での豊臣家滅亡を招く

豊臣秀頼の放任型リーダーシップが招いた大阪の陣

過酷な戦国時代において、一番重要な能力はリーダーシップであると言えます。

戦国大名たちは、大なり小なりリーダーシップを発揮し、一門衆や家臣たち数多くの仲間を率いて、死線をくぐり抜けていく事を求められています。

豊臣秀吉亡き後に、徳川家康が豊臣恩顧の武断派大名たちから強く支持を受けたのは、そのリーダーシップを期待されたからだと思います。

徳川家康の行動を見る限り、自分の地位を利用し、奉行衆に批判的な大名たちに対して好意的な態度を示しすなど、意図的にリーダーシップを発揮しており、豊臣家から政権を奪取する事に成功しています。

家康のように目標に向かって家臣や仲間を率いてまとめていくには、強力なリーダーシップが重要になります。

徳川家に権力を奪われていき、豊臣家の立場が弱まっていく中で、生き残るためには、1615年の大阪の陣に至るまでに、豊臣家の当主秀頼が、先頭に立って目標を定め、率先して家中をまとめていく必要がありました。

しかし、結果として豊臣家は、生存できる可能性がある道を選ばずに、無謀な大阪の陣と呼ばれる戦を選択して、その後、滅亡の道を進んでいきます。

今回は、豊臣秀頼のリーダーシップについて考察したいと思います。

1614年頃の豊臣家の状況

秀吉亡き後の豊臣政権で、家康とそれを支持する武断派が求める「専制型リーダーシップ」と、三成の奉行衆と毛利家や上杉家などが求める「民主型リーダーシップ」による統治の争いが起きました。

慶長文禄の役で疲弊した国内の安定を求める武断派大名たちは、秀吉の代わりとして五大老筆頭である家康個人の強力なリーダーシップを期待しました。

逆に、現政権を取り仕切る三成など奉行衆と、毛利家、上杉家、前田家、宇喜多家、佐竹家など大老クラスの大大名たちは、合議制による政権運営を望んでいました。

クルト・レヴィンの3種類のリーダーシップ

専制型リーダーシップリーダーが意思決定を独占して行う。未熟で不安定な環境の組織やメンバーに適応。緊急時での早急な意思決定が必要な状況に向いている。
民主型リーダーシップリーダーの支援の下で集団による討議によって意思決定される。現時点での生産性向上には寄与しない。組織やメンバーの成長を促したい状況に向いている。
放任型リーダーシップ意思決定はメンバーの裁量に委任される。リーダーはメンバーの行動に関与しない。集団やメンバーのスキルやレベルが高い状況に向いている。

結果としては、専制型リーダーシップの家康派が勝利し、豊臣政権は家康を中心にした政権運営が始まります。

家康は、幼帝である豊臣秀頼の代行者としての権限を利用して、豊臣家の蔵入地を、各大名への恩賞として分け与えて、豊臣家の財政力を弱体化させていきます。

また、朝政の代行者である摂関家としての豊臣家から、征夷大将軍である家康は、政権運営の実権を奪取します。

平安時代の摂関政治から、鎌倉幕府の武家政権への移行と同じような段取りで進んでいます。

少しづつ追い込まれていた豊臣家ですが、武断派の豊臣恩顧の大名たち(福島正則や加藤嘉明)が残っていた事もあり、豊臣家の存続の可能性も、まだ残されていたと思います。

豊臣家の家老であった片桐且元は、徳川家との和平に奔走を続けていました。

しかし、豊臣家内部では、権力の座から滑り落ちている事を認めたくない者たちが多くいたようで、武力で徳川家に対抗しようとします。

ここで本来であれば秀頼は専制型リーダーシップを発揮するべきだったと思います。

リーダーシップ無き豊臣家の混乱

この時期、秀頼の意思や行動について残されている資料が非常に少ない事からも、放任型リーダーシップだったようです。

その影響もあり、豊臣家の浮沈が掛かる大事な時に、路線対立により内部抗争を起こし続けます。

当初は、賤ヶ岳七本槍の一人でもあり数々の戦を経験した片桐且元が豊臣家家老として、徳川家との協調を図り、豊臣家の存続の道を探ります。

しかし、秀頼の側近である大野治長や織田長益は、且元たち和平派が徳川家に従順すぎるという理由で豊臣家からの排除を行います。

且元は、織田常真や織田信則・石川貞政などの和平派と共に豊臣家から離れます。

最終的には、大阪の陣は、この且元排除に対して家康が激怒した事で、火蓋が切られたと言われます。

徳川家との交渉担当である且元を排除した事は、両家の決裂を意思表示したと取られてもしかたがない事です。

 

大阪の陣以降も続く路線対立

ここまで、秀頼の放任型リーダーシップによって豊臣家の方針は、家臣たちのパワーバランスで決定されているように見えます。

大阪の陣が始まると、またしても主戦派の中で路線対立が起こります。

堅牢な大阪城を固めて講和に持ち込みたい大野治長などの消極派と、城を遠く離れて京都で決戦する真田幸村などの積極派で意見が割れてます。

消極派の戦略が採用されて大阪城での籠城を中心とした戦を始めます。

大阪冬の陣は、お互いの事情もあり、大野治長や織田長益たちの主導で和議が成立しますが、この後にも治長の弟大野治房との間で対立が生じます。

大野治長や織田長益たち和議派は、徳川家と一戦交えて有利な条件での講和による解決を考えていたようですが、治長は徹底抗戦派の治房たちから襲撃を受けて負傷しました。

これ以降は徹底抗戦派が主導していったようで、和議派の重鎮である織田長益と織田頼長は大阪城から離れています。

当主である秀頼の意見や意向も見えないまま、家臣である大野治房の徹底抗戦派と真田幸村や後藤又兵衛などの浪人組を中心に大坂夏の陣が始まります。

ここまでくると、放任型リーダーシップの極みと言いますか、リーダーシップの放棄ともとれる始末です。

秀頼による直接出馬によるモチベーションアップ案も採用される事もなく、戦況は悪化を続けて、最終的には豊臣家は滅亡に至ります。

 

まとめ

戦国時代のような変化の激しい環境では、織田信長のような専制型リーダーシップか、それに近い形態が有効です。

秀頼のような放任型リーダーシップは、家臣たちの行動に歯止めが利かず暴走を始めて、最悪な結末を迎える事が多いので、不安定な状況では避けるべきだと思います。

しかし、放任型リーダーシップであっても、成功する例はあります。

幕末の毛利家の当主毛利敬親も放任型リーダーシップでした。

禁門の変のころは、下級藩士たちに引きずられるように暴走して、長州征伐を受けて御家取り潰し直前にまで至るなど、放任型リーダーシップの悪い面が出てしまいました。

ただ、豊臣家との大きな違いは、第二次長州征伐までに、桂小五郎がクーデターで実権を掌握し、当主の代わりにリーダーシップを発揮して、高杉晋作や大村益次郎などの高いスキルが活かせる環境が出来ていた点です。

毛利家は下記のような構図だったと思います。

もし豊臣家でも、桂小五郎のような、真田幸村や後藤又兵衛の高いスキルを活かせる者がいれば、歴史は変わっていたかもしれません。




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