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番外編:【上杉斉憲】謙信ブランドを改革できずに戊辰戦争で敗戦

ブランド改革できずに戊辰戦争で敗軍となった上杉米沢藩

米沢藩の藩祖である上杉謙信は、戦を得意とする武のイメージと、関東管領として関東諸侯を救援する義のイメージがあります。

遺領を継承した上杉景勝は、軍神と恐れらて義将と頼られた謙信のイメージをブランド化して、上杉家の組織力の強化の求心材料としていたこともあり、関ヶ原の戦いでは恩義ある豊臣家や石田三成に組します。

徳川家康を激怒させたと言われる「直江状」などは謙信ブランドの武と義のイメージの真骨頂かもしれません。

関ヶ原の戦いでの敗戦による減封などは、謙信ブランドを掲げる上杉家として、正しい選択をした上での不運な結果であると捉えていた節があります。

これらの結果として、米沢藩の家臣たちには、謙信の行動が一種の憧れのブランドとして浸透していたようです。

また、直江兼続や上杉鷹山も藩政改革において、武のイメージを損なうような兵力の削減によるコストカットは行わずに、藩の財務強化を中心に施策していきます。

こうして260年間も引き継がれてきた謙信ブランドを、幕末の米沢藩は自藩の行動原理とします。

しかし、長きに渡り受け継がれてきたブランドであっても、戊辰戦争でもまた敗軍となった点を考えると、時代の流れに合わせて改革が必要だったと思います。

今回は、幕末の米沢藩の動向と最期について考察していきます。

 

米沢藩が奥羽越列藩同盟に参加した意外な理由

新政府軍との対決を考えていなかった上杉斉憲の米沢藩でしたが、新政府軍による会津藩討伐の方針を受けて、戦国時代の宿敵である伊達仙台藩と共に奥羽越列藩同盟を結成します。

なぜ勝ち目の薄い幕府側に付いたかと言うと、徳川家に恩義があった訳ではなく、第三代藩主の綱勝が子も無く急死し、無嗣断絶で御家取り潰しになるところを、会津藩の藩祖の保科正之が救ってくれた事への恩義があったからと言われています。

これは藩祖の上杉謙信が義のイメージが強い戦国大名だった事もあり、そのブランドを継承した上杉景勝と直江兼続も関ヶ原の戦いで恩義のある豊臣家や石田三成に組して蜂起した事は、正しい選択として米沢藩の家中に浸透していたからだと思います。

他の幕末の雄藩と同じように、米沢藩も藩主の上杉斉憲による方針ではなく、若い家臣たちが先導して、会津藩救援を決めた点からも、それが伺えます。

ただ、義理固いイメージの謙信ブランドは守られましたが、結果としては、関ヶ原の戦いに続いて、またしても敗軍として降伏する事になります。

関ヶ原の戦いで西軍として同じように辛酸を舐めた島津家や毛利家たちと違う道となったのは、上杉家の奇妙なほどの義理堅さが原因と言えそうです。

また東北諸藩の武力を下に見ていた新政府に対しての武門としての意地もありました。

しかも今回は、武の名門の上杉家でありながら、長岡藩や庄内藩と違って、新政府軍に対して良いところなく敗戦となり、城下まで進駐されるという屈辱も味わいました。

 

直江兼続の戦略からの進化が無かった軍制改革

ペリー来航後、危機意識が高かった西日本の諸藩は、軍制改革を行って、鎧兜に槍や刀で騎馬に跨ってという伝統的な戦闘スタイルから、軽装で最新式の銃を携帯した歩兵を中心とした洋式化を行います。

しかし、他の藩の意識は変わる事が無く、特に東北方面の藩の動きは鈍いものだったようですが、その中で上杉斉憲は率先して軍制改革に着手して、洋式化を図りました。

これには、関ヶ原の戦いの敗戦後に兼続が、上杉家の特長でもある戦闘力の強化の為に、藩内での鉄砲の生産を強化し、鉄砲足軽を高く評価していた事もあり、歩兵を中心にした洋式化に抵抗が少なかった事が影響しています。

他藩では伝統的な軍制への誇りがあり強い反発を受けて洋式化が実現しなかった例も多いです。

ただ、米沢藩も他の先進的な雄藩と比べると、洋式化の深度も遅れており、特に用兵面での訓練度が低かったようです。

特に、最新式の大砲への切り替えが大きく遅れており、射程距離の長い大砲を活用した用兵の差で新政府軍に圧倒される事になります。

これは、兼続時代から浸透していた鉄砲への施策の影響で最新式の銃の導入を重視した事で、最新式の大砲への対応が疎かになってしまった事が原因です。

兼続の戦略からもう一歩進化を必要としたのですが、それができなかったのが米沢藩の限界でした。

しかし、敗戦後に大きく戦略転換をするのが上杉家の伝統かもしれません。

降伏後は、謙信ブランドの武のイメージを捨てて、新政府側として会津藩や庄内藩の降伏の仲介を行う事で、東北での戦争を終結に導く役割を担っていきました。

まとめ

米沢藩が掲げていた謙信ブランドは、藩外だけでなく、家中にも大きな影響力を持っていました。

まさに、価値観、従業員、文化、伝統、企業風土や強みなど、多くの要素から構成される現代の企業ブランディングのようです。

現代の企業においても、永年維持してきた伝統あるブランドは、どこかで時代と齟齬が生まれてくるものです。

しかし、長く続く企業の多くは、時代に合わせてブランド改革を行っております。

その多くは微調整レベルだったりもするのですが、時代に少しづつでもフィットさせる事で、企業の寿命を延ばしていきます。

ブランド改革ができないままの企業は停滞し、やがて魅力を失っていきます。

米沢藩も謙信ブランドを進化させて、銃に拘らない最新式の武器の積極的な導入による武のイメージと、義憤に囚われない現実的で柔軟な思考による義のイメージになっていれば、違った結果となっていたかもしれません。

ただ、米沢藩は、謙信ブランドの義理堅いイメージに沿って、越後戦線で被災した住民たちに炊き出しをしたり、火災の消火活動をしたりと、旧領の住民たちに対して取った行動は、評価すべきものです。

これらの行動が、現在の上杉謙信や景勝、兼続、鷹山への良いイメージに繋がっている面はあると思います。




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