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【織田信長】織田家のマズロー的報酬システムを含んだ人事制度

豊臣秀吉や明智光秀を輩出した織田信長の人事制度

戦国時代に、革新的な事績を残した戦国大名と言えば、織田信長を思い浮かべる方が多いと思います。

ただ、昨今の研究では、かの有名な楽市楽座を初めに導入したのは南近江の六角氏だとか、長篠の戦いで鉄砲隊の三段構えなどはしていないだとかが唱えられるようになってきてはいますが、織田信長が行っていた人事制度については、なかなか特徴的だと思います。

戦国大名も現代の企業と同じく、人事制度として「採用」「配置」「教育」「評価」「報酬」などを、大名や重臣たちによる差配にて行っています。

織田家において、この中でも特徴的なのが「採用」と「報酬」だと思われます。

採用については、皆さんがご存じのように、軍を纏める司令官クラスには、先祖代々からの家臣だけではなく、出自の低い豊臣秀吉や、大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公である外様の明智光秀など、地縁や血縁でなく能力を重視した採用と抜擢を行っています。

国が違えば方言が強すぎて言葉が通じないぐらいの当時の感覚でいうと、現在のダイバーシティ的な採用だと思います。

また、さらに特徴的なのが、その独自の報酬システムです。

従来であれば、家臣たちは、自身の一族郎党を養うために、活躍に合わせた領地や金銭などを期待します。

また、次の段階として、朝廷から官位を貰い与えたり、勝手に官位を与えたりする事で、家臣たちの承認欲求を満たしてやったりします。

しかし、これらは数には限りがあるものなので、与えるにしても限度があります。

そこで織田信長が生み出した報酬が、とても画期的かつマズローの自己実現欲求を満たすというとても斬新なものでした。

今回は、そんな織田信長の人事制度、特に「採用」と「報酬」を中心に考察したいと思います。

 

能力主義によるダイバーシティ的な人材採用

最近でも、リファラル採用と言い換えて縁故や紹介での採用が増えつつありますが、戦国時代の人材の採用についても、まずは地縁、血縁を重視する事が多かったと思われます。

それは、いくら能力があっても、素性の知れない人間を部下に持つのは、寝首をかかれる恐れがあり、非常に危険だからでもあります。

例えば、全国の大名を統御した徳川家康が誇る徳川四天王も、井伊直正以外は、家康の地元の代々三河出身の者でした。

その後も、江戸幕府の最高責任者である老中には、三河出身の譜代大名が付く事が多かったようです。(井伊家は三河出身ではないです)

しかし、織田信長が方面軍の司令官として選んだり、茶の湯に招待したりした重臣の半数以上は先祖代々の譜代ではないのが特徴です。

佐久間信盛譜代尾張出身、父の織田信秀から仕える筆頭家老
林秀貞譜代尾張出身、弟の織田信勝派から転向
柴田勝家譜代尾張出身、弟の織田信勝派から転向
丹羽長秀当代尾張出身、丹羽氏は元々斯波氏の家臣筋
滝川一益当代出身は甲賀と言われているが出身不明
豊臣秀吉(羽柴)当代出身は尾張と言われているが詳細不明
明智光秀外様出身不明、元足利義昭配下
荒木村重外様摂津出身、元池田勝正配下
細川藤孝外様山城出身、元足利義昭配下

 

後の織田家の家老となる林秀貞や柴田勝家も織田家の家督争いで信長の弟を支持して敗れていますので、信長直系の先祖代々の譜代重臣としては佐久間信盛だけのようです。

織田信長の採用戦略は、身分や出身地などに関係なく広く人材を登用しているのがポイントです。

プロパーであろうと中途であろうと成果を出せるか、もしくは特別な才能を有しているかどうかを評価軸としていたと思われます。

マズローの自己実現理論的な報酬システム

アメリカの心理学者・アブラハム・マズローによって、人間の欲求を下記のように五つの階層で理論化しました。

五段階の欲求内容戦国時代
①生理的欲求生きていくための基本的・本能的な欲求(食べたい、寝たいなど)食料などの提供
②安全欲求危機を回避したい、安全・安心な暮らしがしたいという欲求で、雨風をしのぐための家、健康などを表します。領地や屋敷の提供
③社会的欲求集団に属したり、仲間が欲しくなったりする欲求を表します。重要な役割や与力の付与
④承認欲求他者から認められたい、尊敬されたいという欲求のことです。官位や感状の付与
⑤自己実現欲求自分の能力を引き出し創造的活動がしたいなどの欲求を表します。なし

 

戦国時代であっても、基本的には、第四段階までの家臣の欲求を満たせるようには心がけていたと思います。

織田信長は、領地や役割、官位などには限りがあるうえに、これらの欲求には際限がない事を踏まえて、自己実現欲求を満たせるような独自の報酬を用意しました。

それは、当時、千利休たち堺の町人によって芸術へと高められつつあった「茶の湯」を報酬にした事です。

織田家の家臣たちも、自分なりのおもてなしを客人に演出できる茶の湯という文化に、ステータスを感じていました。

そこで信長は、織田家内での勝手な茶会の開催を禁じて、信長の許可が必要となる認可制にして、「茶の湯」の報酬としての価値を高める事をしました。

また、有名な茶器などもかき集めて家臣への報酬とし、「御茶湯御政道」とも呼ばれたようです。

例えば、重臣の滝川一益は、武田家を滅ぼした甲州征伐で戦功を上げた報酬として、信長に珠光小茄子という茶器を所望していましたが、関東管領の称号と上野一国(群馬)を与えられてがっかりしたそうです。

茶の湯の師匠に「上野のような遠いところに領地を与えられて、もう茶の湯もできません」と手紙を書くぐらいショックだったようで、信長の意図通りに運用で来ていたようです。

まとめ

織田信長は「採用」「報酬」以外でも「配置」「育成」でも成果を出しています。

「配置」においては、四国方面軍の司令官には、序列が上の次男の織田信雄ではなく、三男の織田信孝の能力を見込んで抜擢するなど、年功序列ではなく、適材適所で行っていたようです。

「育成」においても、本人の能力が高かったとしても、信長がチャンスを与えて、成果を評価したからこそ、秀吉は一介の奉公人から、中国方面の司令官にまでなれたと思います。

そして、この信長の人事制度の中から、全国を統一する豊臣秀吉という稀有な人材が生み出されました。

現代においても参考にできる人事制度だと思われます。

しかし、松永久秀や別所長治、荒木村重、明智光秀など外様の武将や城主の謀反が多かった事を考えると、どこかに問題があったようです。

もしかすると、「評価」の面において、特に外様系の武将と大きなズレを生んでいたのではないかと思うのですが、こちらについては、また別の機会に。

 




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