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【伊達政宗】第三代将軍の徳川家光をファンにした独眼竜ブランド

伊達政宗の独眼竜ブランドを活用した生き残り戦略

南奥州の覇者とも呼ばれる伊達政宗ですが、年齢的には織田信長の孫の織田秀信と近いので、信長や秀吉よりも三世代も若い戦国大名です。

若手のイメージの上杉景勝や武田勝頼よりも、かなり若い上に、20代で当主として独り立ちして活動をしています。

織田信長1534年生まれ
豊臣秀吉1537年生まれ
上杉景勝1556年生まれ
毛利輝元1553年生まれ
織田秀信1580年生まれ
伊達政宗1576年生まれ

 

若干23歳の伊達政宗が南奥州を制覇したころには、豊臣秀吉が北条家を包囲して全国統一に手を掛けたころでした。

そして、北条家と同様に従属の姿勢を見せなかったことで、伊達家は御家取り潰しもある風前の灯火のような状態でした。

 

しかし、戦国を生き抜いた百戦錬磨の武将を引き連れた最高権力者である豊臣秀吉に、伊達政宗自身に興味を抱かせる事に成功した結果、減封を受けたものの72万石を確保できました。

この時に、あの有名な白装束で秀吉に謝罪するというパフォーマンスを披露した事で、秀吉から面白そうな奴だと認識されたと言われています。

秀吉の統一後、家康による幕府開闢後も、伊達政宗は常に野心がある素振りを見せ続け一筋縄ではいかない人物であるように見せます。

これも一つのブランド効果として、普通の人間なら持て余しそうな人材を、俺だから従えられているという優越感を満たす効果を、権力者に与えているともとれます。

例えば、ビンテージカーやアンティークウォッチなど、維持管理に手間が掛かっても、持っている事で優越感を感じれるものは、現代にもたくさんあり、それらはブランドとして確立されている商品でもあります。

政宗のパフォーマンス力もありますが、時の最高権力者たちは、若く戦闘経験も豊富で自己の政権の脅威となりそうな伊達政宗を取りつぶす事をしなかった事からも、多少の手間が掛かるにしても持っている事に価値があると考えていたと思われます。

そして、伊達政宗のブランド戦略が最大に発揮されたのが、江戸幕府の第三代将軍である徳川家光に対してでした。

戦を知らない家光は、政宗から当時の戦話を聞かせてもらい「伊達の親父どの」と敬慕していたそうです。

また、二条城への参内時には御三家でも許されなかった紫の馬の総を伊達に与えたり、政宗が死去した時には御三家と同じ期間、喪に服すように京と江戸にお触れを出したそうです。

政宗が長年積み上げてきたブランド力によって、家光は心から独眼竜ファンになってしまっていたと思われます。

中小企業にとっても参考にしたいはずの伊達政宗のブランド力を、考察してみたいと思います。

 

隻眼である事をも活用してブランドイメージを作ろうとした伊達政宗

伊達政宗は、弱みともなりうる隻眼である点もブランドイメージとして有効活用します。

現代では、伊達政宗は独眼竜という異名でも有名ですが、元々は中国の唐末に実在した隻眼の猛将李克用の異名でした。

隻眼の李克用は、自身の軍団の武装を黒で統一して、鴉軍と呼ばれ、敵はその名前を聞いただけで崩れ立つほどだったと言われています。

その元祖独眼竜の李克用を準えたのか、伊達政宗も漆黒の甲冑(黒漆五枚胴具足)を、家臣と共に纏って黒い部隊を形成していたそうです。

しかし、生前の伊達政宗は、自ら李克用をモチーフにしていたとは言わなかったようです。

後世の史家の頼山陽が、政宗と李克用を重ね合わせて独眼竜という異名を付けたという点も、「分かる人には分かる」的な要素を残しているのもポイント高いと思います。

このような点からも伊達政宗は、自身の隻眼をも活用して、自分が文化や教養の高い人にどう見えるかを常に意識して行動していた事が伺えます。

戦国という時代において、すでに自己のブランドアイデンティティの確立をイメージして行動していたと考えられます。

D.A.アーカーのブランド・アイデンティティ・システムというフレームワークに当てはめて見ると下記のようになりました。

伊達政宗は、「意気を示して男らしく」「粋でおしゃれ」「後世に名を遺す」という事などを念頭において、独眼竜ブランドを高める活動をしていたようです。

  1. 実際に若くして南奥州を一時的に制覇した政宗自身の実力
  2. 鎌倉幕府の奥州藤原氏討伐に参加したという武門としての伊達家の履歴
  3. 茶の湯だけでなく能や和歌、漢詩などにも精通しおり文化や教養
  4. 白装束や黄金の十字架、豪華絢爛な装束などのパフォーマンス
  5. スペインとの貿易のためのマーケティングリサーチ活動

伝統と格式などの固いものから、パフォーマンスまでの柔らかいものを幅広く見せる事で、見る人の中にギャップを生み出す事を意識している点も、ブランディングを意識していたと思えます。

 

利用価値よりも警戒感が強すぎた独眼竜ブランド

伊達政宗は、遅参や一揆の扇動などを理由として、秀吉によって最大で100万石以上あった所領を、72万石に減封され、最終的には58万石にまで減封されました。

秀吉に取って、独眼竜ブランドは、利用価値よりも警戒感の方が強かったようです。

しかし、徳川家康にとって、伊達政宗は魅力的なブランドだったようで、秀吉没後に早速、伊達家と婚姻関係を結んで、関係の強化を図ります。

ただ、そうは言っても、やはり警戒が必要な存在だったようで、関ケ原の戦いにて、上杉景勝を迎撃して貢献したにも関わらず、わずか4万石の加増だけで終わりました。

どうやら戦国時代を生き抜いた人間からすると、どうも伊達政宗を手放しでは信用できないようです。

そして、ついに1615年の大阪の陣での戦功が認められて、伊予宇和島10万石が加増され、合計72万石にまで戻す事ができました。(しかし、仙台近郊ではなく、遠く離れた愛媛の南端です)

独眼竜ブランドの負のイメージが先行してしまって、発信側の意図通りになっていない点は、ブランディングの難しさかもしれません。

しかし、戦国から平和な時代へと世代が変わると、ブランドイメージの受け取り方も変わってくるようです。

 

三代将軍家光の時に、幕府が諸大名を家臣扱いとするとした時に、政宗が進み出て「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ」と言った事で、他の大名が反対できない雰囲気を作るなど幕藩体制の確立に貢献を続けました。

これらの貢献は、素直に三代将軍家光には素直に理解されたようで、下記のような特別な待遇を受けました。

  • 御三家でも許されなかった紫の馬の総の利用
  • 御三家と同じ期間、喪に服すようなお触れ

どうやら、伊達政宗の独眼竜ブランドは万民受けするものではなく、若い世代の心に響くブランドだったようです。

 

まとめ

戦国という時代において、伊達政宗ほど、自分がどう周囲から見られているかを意識していた大名は少ないかもしれません。

改易が多かった江戸幕府の初期を大過なく過ごせたのは、独眼竜ブランドのおかげもあると思います。

そして、現代においても、大河ドラマや小説などの題材にも取り上げられている事を考えると、伊達政宗が作り上げたブランドアイデンティティは、時代を越えて大きな影響を残していると言えます。

また、伊達政宗ゆかりのスポットに観光客が訪れる事で、何百年後の地元経済にも、独眼竜ブランドは大きく貢献しています。

グラフィックエディション by 井筒範子さん




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