SWOT分析

幕末SWOT【新選組】志を見失った時に組織は終わる

パーパス(志)の重要性が示す新選組の顛末

戦国時代の武士は、自家を守るために、生き残りをかけて、一所懸命に戦ってきました。

しかし、江戸時代を経て幕末になると、武士たちは、主家や国、大義のために腹を切るようになります。

武士たちの行動基準が大きく変容し自分の利益や名誉のためではなく、広く社会性を意識したものになっていきました。

それに伴って幕末に生まれてきた組織も自己の利益のためではなく、理念をもって活動するようになります。

その中の代表的なものが、幕末の都で攘夷志士たちを震え上がらせた剣客集団の「新選組」です。

新選組は上洛する第14代将軍徳川家茂の警護の名の元に集められた浪士集団でした。

京に入ると会津藩の元で過激派浪士を取り締まる警察のような役割を担うようになりますが、大政奉還以降に主要メンバーの離反や離脱により崩壊します。

この崩壊には、組織としてのパーパス(志)の有無が重要な鍵になっていると思います。

パーパスとは、近年注目を浴びている言葉です。企業の存在意義と訳される事が多いですが、理念やビジョンとの違いが分かりづらいものでした。

しかし、日本古来の言葉の「志」と置き換える事で、その意味が鮮明になりました。

今回は、新選組を時間軸でSWOT分析しながら、パーパス(志)の重要性を見ていきます。

 

志違いの集合体だった壬生浪士組

元々、勤王家の清河八郎による策略で集められた浪士集団でしたが、近藤勇や芹沢鴨が「将軍警護と王城守護」のために京に残って結成したのが壬生浪士組です。

その後の活躍を経て新選組と名を改めます。

壬生浪士組の頃は、会津藩預かりという非正規な集団のため、常に資金不足に悩まされていました。

また、人材不足から隊士募集を行い総勢36名となった事で、さらに資金不足に拍車がかかります。

芹沢派は、資金を得るために豪商を強請り、拒否した商家を焼き討ちしたりと乱暴狼藉を繰り返したと言われています。

それを原因として、近藤勇などの試衛館派が、芹沢鴨を含む芹沢派を粛正したというのが一般的に知られている説です。

これらは数ある要因の一つかもしれませんが、最大の要因はパーパス(志)の違いによる主導権争いではないかと思います。

壬生浪士組は、将軍警護と王城守護を志に活動を始めました。

しかし、水戸藩の出身と言われている芹沢鴨の存在は違和感があります。

水戸家を含む御三家および越前松平家は、徳川宗家の家臣という意識は薄く、帝の朝臣であるという意識が強く、藤田東湖など家臣の多くも同様です。

しかも、芹沢鴨自身も浪士組に参加する以前に、尊王攘夷の活動遍歴があるように勤王家のスタンスでした。

一方で、近藤勇や土方歳三たちは、幕府の直轄地である天領の多摩地域に育ち、徳川宗家の家来である意識が強いと思われます。

近藤と芹沢の間には、誰のための王城守護なのかという点で大きなズレを抱えていました。

近藤たちは会津藩のバックアップの元で、問題の多い芹沢派の粛正を行い、「将軍警護と王城守護」の志を同じくする組織「新選組」として生まれ変わります。

弱みであったスタンスのズレや組織としてのルール「局中法度」の徹底を図り、新選組を強固な戦闘集団へとまとめ上げます。

ちなみに、近藤を含む試衛館派の古いメンバーは上下関係ではなく、同志意識が強かったようです。

新選組は、将軍警護と王城守護という同じパーパスを有する者たちの集団となりました。

 

志を無視した組織の補強計画の失敗

1864年の池田屋事件や禁門の変での活躍を経て、会津藩からの期待も高くなった事で新選組の増強が急務となりました。

また、同じころに、新選組のライバルとなる京都見廻組が約200名規模で結成されています。

京都見廻組は旗本御家人の次男三男を中心にした正規採用の組織でしたので、武士身分でない隊員が多い新選組としては意識せざるを得ない存在でした。

増強を急ぐ新選組は、攘夷の思想と王城守護の志を持つ伊東甲子太郎たちを迎え入れ組織の強化を図ります。

新選組が武闘派ゆえ時世に明るくない点や教養不足の穴を埋めるための採用でもありました。今でいう藤堂平助のリファラル採用です。

しかし、伊東甲子太郎たちは、新選組の「将軍警護」の志とは逆の「勤王討幕」の考えを持っていました。

当然のように、近藤たちと伊東たちの間で新選組の活動方針において路線対立が起こり、伊東たちは新選組の古参メンバーの藤堂平助とともに離脱します。

伊東は勤王討幕という志の同じものたちと御陵衛士という組織を立ち上げました。

新選組としては、志を異にして独立した伊東甲子太郎と藤堂平助たちに対して、けじめをつける必要がありました。

そして、伊東を近藤の妾宅で酔わせた上で暗殺し、その死体を罠として藤堂たち他の御陵衛士のメンバーをおびき寄せてせん滅を図ろうとしました。

いわゆる油小路事件と呼ばれる凄惨な内ゲバでした。志のすれ違いはいつも悲惨な結果を生みます。

新選組は粛正によって、再度、志を同じくする集団へと精鋭化しましたが、この事件が近藤勇の寿命を縮める事につながります。

 

環境の変化で志を見失った組織の行く末

伊東たちを粛正した事で、再度、新選組は同志集団へと戻りましたが、その間に外部環境に大きな変化がありました。

第15代将軍の徳川慶喜による大政奉還です。

慶喜が京都政界での幕府の劣勢を挽回するために繰り出した奇策中の奇策でした。

外交や内政から遠ざかっていた朝廷は、結局のところ徳川幕府に委任もしくは依存するしかないので、慶喜が権力を再度掌握できるというのが狙いです。

しかし、薩摩の大久保利通と公家の岩倉具視による王政復古のクーデターによって、この慶喜の策略を覆して京の政治から徳川宗家は締め出され、さらに征夷大将軍ではなく、いち大名に降格させられました。

結果として、幕臣として取りたてを受けていた新選組も、将軍や幕府軍とともに京から去る事になりました。

組織として「志」としていた将軍警護と王城守護を失ってしまいます。

江戸に戻った新選組は、ここから音を立てて崩壊を始めます。

江戸で寄せ集めの甲陽鎮撫隊を率いて、甲府で新政府軍に大敗し、さらにリーダーの近藤は迷走を始めます。

同志である古参メンバーの永倉や原田が会津で再結集を勧めるのに対して、近藤は「自分の家臣になるなら」という条件を出します。

これに反発して永倉や原田などの古参メンバーは新選組を離脱しました。

これの件をもって、同じ志の元で活動をしてきた新選組は終焉したと思います。近藤の発言から残っていた微かな志をも捨てたように見えます。

その後、近藤は新政府軍により処刑され、会津戦争では斎藤たちも志を異にして会津での徹底抗戦のため離脱していきました。

 

新しい志の元で新選組を再結成

会津から脱出した土方歳三と隊士の一部は、幕臣の榎本武揚たちとともに、新政府軍の手薄な北海道に逃れます。

そして、蝦夷地にあつまった旧幕府勢力によって、函館政権の樹立が宣言され、そこに土方は主要メンバーとして参画しました。

政権の陸軍奉行並となった土方歳三は、新しい志の元で新選組を再結成します。いわゆる函館新選組です。

理念とビジョンはこれまでと同じですが、志を新たに「函館政権の守護者」として、函館政権を支える鼎となる事を目指します。

函館政権は将来的に徳川将軍の縁者を推戴しようと考えていたようですので、京にいたころの志を少し変えた形での再出発でした。

函館政権が1年ほどで新政府軍に敗れたため、函館新選組も短命に終わりました。

しかし、ここで土方の元で再結成して、新政府軍と戦った事で、新選組の有終の美を飾る事ができたと思います。

もし、江戸で解散したままで終わっていたとしたら、今ほどの支持を得られたかというと疑わしいです。

日本人の大多数が、真田幸村が描いたストーリーが好きなように、滅びや散り際の美学を非常に重視する傾向にあります。

志を失った近藤の捕縛によってあのまま新選組が終わっているのと、志を新たに再結成し最後まで戦って終わるのでは、どちらが人々の印象に残り愛されるかは一目瞭然です。

土方としては近藤の名誉を想い、新選組を美しく終わらせるための再結成だったのかもしれません。

 

まとめ

昨今、組織としてのパーパス(志)の有無が、業績はもちろん永続性にとっても重要だと言われるようになりました。

ただ、現在進行形の現代企業の事例を見ても、その有効性を図るには、まだ時間が短すぎると感じていました。

しかし、歴史の中で、当てはまりそうな組織として、幕末の一時期を彩った新選組を分析してみると、まさに志の有無に組織が左右される姿が見えてきました。

本来であれば、組織だけでなく、個人の志も重要な要素になりますが、今回は省いています。

特に、リーダーの近藤は、農民身分から立身出世を願い、ついに功績が認められて幕臣に取り立てを受けてから、個人的な志を失っていってように見えます。

最後、新政府軍に降伏したとき、偽名を使っているのを、かつて粛正した伊東派の生き残りに見破られて処刑されるという顛末に、かつての志を感じる事は難しい。

明らかにモチベーションが下がっていたのが伺えます。

こうして新選組を題材にしたことで、志は、組織の永続性にとって重要なものだというのが分かりました。

また、志は個人においても重要なものだという事も見えてきます。それゆえ幕末の武士は志士と呼ぶのかもしれません。

また、それが組織の内部だけでなく、外部に与えるイメージにもつながることも、新選組の人気を見ると分かったと思います。

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