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【今川氏真】公家文化などの無形資産で事業を再構築

父義元から受け継いだ公家文化で事業を再構築した今川氏真

今川家といえば、戦国時代に当主の義元が、織田信長に敗れた桶狭間の戦いが有名です。

後を継いだ今川氏真が、武に疎く、和歌や蹴鞠など公家文化を愛するあまりに、統治が疎かになって滅亡したと思われています。

父の義元も、お歯黒で輿に乗るなど、公家の風習に被れてひ弱だったため、信長に敗れたと考えられがちです。

実際は、武田家や北条家と渡り合いながら、駿河、遠江、三河を支配し、東海一の弓取りと呼ばれる有能な戦国大名でした。

お歯黒や輿の利用についても、それを許される家格の高さと、朝廷とのネットワークを有していたからです。

義元は、京都から公家を受け入れて優遇するなど、戦乱の世における公家文化の庇護者でした。

後継者の氏真は、残念ながら、父の統治能力は受け継いでいなかったようですが、公家の文化と朝廷とのネットワークについては、しっかりと受け継いでいました。

武田家による攻勢を前にしても、連歌や茶会などを開くことを止めませんでした。

しかし、不思議なことに、ライバルであった武田家、北条家の中で、唯一、国を失いながらも、直系の後継者として戦国時代を生き残ったのは、今川氏真だけでした。

戦国の中で、武田家は後継者の勝頼の系統は断絶し、北条家も氏直の系統は断絶しましたが、今川家では氏真は死なずに、その系統が引き継がれていきます。

現代において、再評価してみると、氏真は面白い存在かもしれません。

 

武田家からの侵攻を受けて有形資産の多くを失う

氏真が、父の死を受けて継承したばかりの今川家は、駿河、遠江、三河の3国、約70万石を支配する大大名でした。

しかし、桶狭間の戦いで父に加えて、有能な家臣たちの多くも失っており、今川家の強みでもあった組織力は大幅に低下していました。

その隙をつくように、武田家から甲駿同盟を一方的に破棄されて、突如、侵攻を受けます。

また、独立した徳川家も、三河地方で勢力拡大を始めました。

組織力が低下している今川家では、武田家の攻撃を防ぎきれず、徳川家の伸長を抑えきれず、ついに本拠地を放棄して、妻の実家でもある北条家へと逃亡します。

本拠の駿河も失い、室町時代から連綿と続いてきた大名としての今川家は、ここで消滅しました。

氏真は、家臣や領地など有形資産の多くを失いました。

ただ、父の義元から譲り受けた公家の文化と朝廷とのネットワークは、無形資産として、氏真個人に付随しており、氏真とその子孫たちを助ける事になります。

今川家の強みは、氏真が大名でなくなってから、その効力を発揮していくことになります。

 

今川家の無形資産を継承して生き残る

本拠を追われた氏真たちは、妻の実家の北条家を頼り、失地回復を待ちます。

しかし、北条氏康の死とともに戦略転換があり、北条家と武田家の間で同盟が結ばれて、北条家の視線は東へと向かってしまいます。

氏真は、ほどなくして、北条家を離れて、武田家と対立関係にある徳川家を頼ります。

その間、父の仇である織田信長と、茶器を通じての交流が生まれていました。

この辺りが、氏真の不思議なところで、京都の相国寺で信長に蹴鞠を所望されて、それを披露してみせた逸話が残されています。

長篠の戦いでは、徳川の客将として参加して、後詰を務め、旧領の駿河に侵攻したりと、徳川家の軍事活動を側面から支援をしています。

ただ、大名としての復帰は叶わないまま、豊臣政権が生まれるころには、京都に移り住んで、公家との交流を深めていきます。

このころに、冷泉家の和歌会や連歌会に積極的に参加し、古典の書写を行うなど、公家社会でのネットワークを強化していきます。

氏真が京都に滞在し続けたことで、長男の範以や次男の高久、孫の直房は、京都で生まれ、公家の文化の中で、英才教育を受けながら育つことになりました。

公家の文化と朝廷とのネットワークという無形資産を受け継いだ次男の高久と孫の直房は、その後、徳川幕府の高家旗本として採用されます。

この高家は、朝廷への使者を務めたり、典礼や儀礼を司り、将軍の代参をするなど、幕府の権威を守る重要な役職でした。

この高家には、忠臣蔵で有名な吉良上野介がいます。

直房は、家康の死後、東照宮の宮号を受けるため、朝廷と交渉を行って、無事に宣下を受けています。

大名としての地位は失いましたが、今川家の無形資産をフル活用できる高家という役職を得て、江戸時代を生き抜いて幕末まで存続できました。

 

まとめ

今川家は、全盛期の70万石から、1000石にまで減り、大名ではなく、徳川家の家臣である旗本となりました。

しかし、格式では、直房の時代に、幕府より高い評価を受けて、従四位下・左近衛少将にまで昇ります。

氏真が守った無形資産を引き継いだ直房が、歴代の今川家の当主の中で、最高位の官位を受けました。

現代で例えるなら、氏真は、自社の強みを保持したまま、適切な規模に事業を縮小し、再構築させたと考えられます。

氏真が受け継いだ重要な公家文化の知識とノウハウ、朝廷とのネットワークが、土豪出身の徳川家が率いる幕府内で重宝されることになりました。

文弱で今川家を滅ぼしたと低評価を受ける氏真ですが、500~1000石の規模ながら、不得意な軍事力を行使する職務ではなく、自身の強みを活かして職務へと、今川家の子孫たちを導きました。

ライバルであった武田家の勝頼父子は晒し首となり、北条家の氏政は切腹、嫡子の氏直は病死し、直系が途絶えていく中、氏真は流転しながらも戦国時代を生き残りました。

どの時代でも生き残ること、事業の永続性は重要です。

文弱と呼ばれた氏真によって、今川家は適正な規模に事業再構築されました。

視点を変えて評価をすると、氏真は生命力という点では、他の戦国大名よりも強者に見えてきます。




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