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【長宗我部元親】無理な事業継承による組織力の低下が御家取り潰しを招く

事業継承時の人材の損失による組織力の低下

長宗我部家は、現在の高知県を長曾我部元親の代で統一をすると、織田信長と誼を通じるなど、中央の勢力状況を見ながら、四国をほぼ勢力下に収めるまでに急成長しました。

一代で四国をほぼ制覇した長宗我部元親は、毛利元就や伊達政宗、島津義久・義弘たちに匹敵する英雄である事は間違いありません。

土佐という辺鄙で農業生産力の高くない地域から、下記の要素を重要視していたと思われます。

  1. 一領具足による兵力の供給システム
  2. 一門衆や重臣の意見を聞き入れる組織力
  3. 中央とのネットワークと情報力

地域的にもカネはなかなか難しかったようですが、ヒト、モノ(兵力)、情報を資産として、元親は有効活用しました。

特に、人口の少ない土佐という地域において、一領具足というシステムは、普段は農作業に勤しみながらも、戦時には自前の槍と具足を持って兵として徴集でき、一時的に兵力を増強できる画期的なものでした。

この一領具足が、明治維新のころに活躍する坂本竜馬や中岡慎太郎など土佐郷士という階級の元になります。

豊臣政権による四国征伐によって、土佐一国へと逆戻りする事になりますが、国持大名としての地位は維持しました。

しかし、豊臣秀吉の死による混乱の中で、元親も後を追うように死去、その翌年に関ヶ原の戦いが起こり、西軍についた長宗我部家は、御家取り潰しになってしまいます。

タイミングの悪さもありましたが、この動乱を乗り切るだけの組織力が、その当時の長宗我部家には残されていませんでした。

今回は、動乱時や事業承継時における組織力の重要性について考察してみたいと思います。

長男の信親の死と後継者問題による混乱

元親は、畿内から家庭教師を呼んで高い教養を身に着けさせようとするほど、長男の信親を溺愛しておりました。

しかし、島津家との戸次川の戦いで信親を失った後、後継者を巡って、元親が人間性が変貌したかのように暴走をし始めます。

溺愛する信親の娘を娶らすために一番年下の四男の盛親を後継者に指名した事で、長宗我部家内の崩壊が始まります。

戦国時代には、直系の娘と婚姻関係を結ぶ事で後継者となる例は、よく見られるので、問題ではないのですが、これを押し通すために、元親は、一門衆や家臣の粛清を始めます。

一門衆で重臣の吉良親実比江山親興を切腹させ、次男の香川親和は不審死、三男の津野親忠を幽閉するなど、盛親に家督を継がせるために、長宗我部家の柱となるべき人材を駆逐していきます。

これと前後するように元親の兄弟である香宗我部親泰などの重臣も病死するなど、組織における人材の損失が激しくなります。

元親が死去し、四男の盛親が継承した1599年には、長宗我部家を守るべき一門衆や重臣などの人材も枯渇し、久武親直という評価のよくない家臣に牛耳られるようになります。

そして、翌年の関ヶ原の戦い後に、久武親直の主導の元で、三男の津野親忠を自死させた事で、御家取り潰しに見舞われる事になります。

 

組織力の低下が御家取り潰しを招く

元親は、明智光秀を取次役として織田信長と誼を通じたり、畿内などの中央の情勢にも気を配ってネットワークや情報を重要視していました。

しかし、豊臣政権の頃には、三男の津野親忠を人質として派遣したものの、逆に藤堂高虎などとの人脈を形成した親忠を嫌うようになるなど、中央との距離感を作るようになりました。

その影響か、毛利氏、島津氏、伊達氏などに与えれらた豊臣姓を下賜されていない点からも、豊臣政権からの評価の低さも感じられます。

この時点で、すでに長宗我部家としての外交力は著しく低下しているようです。

また、1599年という関ヶ原の戦い直前の混乱期に家督を継ぐことになった盛親は、タイミングの悪さもあってか、家督継承者として豊臣政権から承認されてなかったとも言われています。

元々、秀吉が、次男の香川親和に家督を継承させようとしたのを、元親は断って四男の盛親に拘った事もあり、良い印象を持たれていなかった可能性は高いです。

そして、関ヶ原の戦いで西軍として敗れて、徳川家と交渉するためのネットワーク力が必要となるはずでしたが、盛親が人質として中央に派遣された形跡がない事からも、中央とのネットワーク力や情報力が弱かったと思われます。

加えて、中央との関係性を有する三男の親忠を危険人物として殺害してしまった事で、長宗我部家の組織としての外交力は更に大きく低下します。

さらに、ヒトや情報という資産が大きく不足していた事に加えて、モノ(兵力)の統制が利かなくなってしまい、家臣や一領具足たちによる浦戸一揆が発生してしまいます。

長宗我部家には、家臣や一領具足たちを制御できる人材がいなかったようです。

この事件の責任を取らされて御家取り潰しになったとも言われている事からも、長宗我部家の改易は組織力の低下が大きな理由だったと言えそうです。

まとめ

もし、長男の信親が生きていれば、長宗我部家は大名として幕末まで存在できたかもしれません。

家督継承時に反対派家臣の粛清などで、未来のトラブルの目を摘む事もよくある事で、上杉景勝はかなり徹底的に反対派を粛清しましたが、それによって組織力が高まりました。

それは、直江兼続などの有能な家臣たち人材に支えられたのが大きなポイントかと思います。

そういう意味では、盛親が事業継承した時には、反対派だけでなく、支えるべき有能は家臣たちが粛清または病死してしまい、評判の悪い久武親直のような家臣しか残らなかったのが大きな分岐点かもしれません。

ちなみに、優秀な人材だった兄の久武親信は、「弟の親直は腹黒いから、取り立ててはいけない」と元親に伝えるほど、親直の人間性を警戒していたそうです。

平時も有事も組織力の源泉は、ヒト(人材)が基本であるというのが、この長宗我部家の御家取り潰しからも見えてくると思います。




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