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【堺の会合衆】経営資源と茶の湯が生み出す政治力が、天下統一を支える

堺の経営資源と茶の湯による政治力で統一政権と向き合う

応仁の乱以降、現在の大阪の堺市は、国際及び国内貿易の拠点として栄えました。

戦国時代に、キリスト教の布教のために来日していたガスパルヴィレラは「ベニスのように執政官によって治められている」と著書に記しており、ルイスフロイスも「東洋のベニス」と当時の堺を表現していました。

当時の堺は、日本でも有数の商業都市であり、莫大な資金力とその資金で雇入れた浪人衆による軍事力を有し、会合衆という有力な商人たちによる合議制で統治運営された自治都市でもありました。

戦国時代には、大名の支配をうけない自治都市が複数ありましたが、その多くは本願寺や興福寺、伊勢神宮などの寺社勢力を背景にしており、商人を中心として独立性を維持していたのが堺という自治都市の特徴です。

鉄砲の生産にもいち早く取り掛かった事で、最新の武器の生産地でもありました。

それらを背景にして、畿内での覇権を争う三好三人衆と松永久秀を仲裁するほどの政治力も有していました。

そして、堺の商人たちが茶の湯を愛好したことで、先進的な文化都市という一面も持ち、当時の日本の最先端の都市と言っても過言ではありませんでした。

ただ、このような自治が維持できていた最大の要因は、戦国時代という動乱期だった事が大きな理由でしょう。

戦国時代の畿内には、京都の朝廷、足利幕府、滋賀の比叡山、大阪の本願寺勢力、奈良の寺社勢力、和歌山の高野山、根来衆、雑賀衆などの複数の勢力が併存して、微妙な均衡状態を保っていました。

しかし、その均衡状態を破壊する勢力が出現しました。

それが足利義昭を奉じて京への上洛に成功した織田信長でした。

そして、信長は、時間を掛けながらも、朝廷を覗くほとんどの勢力を屈服させるか駆逐して、畿内を制圧します。

経営資源と茶の湯の文化で信長政権を支援する

天下統一を目指す信長としては、堺が有していた経営資源であるヒト・モノ・カネ・情報に加えて文化を手中に収めようとします。

  1. 優秀な商人の今井宗久、津田宗及、千利休などのヒト
  2. 日本では手に入れにくい鉄砲茶器、南蛮物などモノ
  3. 貿易から生み出された莫大な資金というカネ
  4. 日本各地や世界とのネットワークから得る情報
  5. 茶の湯やキリスト教などの文化

ただ、信長は直轄地のような直接的な支配をせずに、家臣の松井有閑を取次役として担当させて、会合衆であった今井宗久を代官に留任させて堺の運営を任せる間接支配をとっていました。

今井宗久は、信長から数々の特権を認められる事で、堺の会合衆の中でもさらに高い発言力を獲得していきます。

その見返りとして、会合衆での合議をリードして、信長の天下統一事業を支援していきます。

また、津田宗及、千利休と共に、茶頭として、織田政権内部での茶の湯の普及にも協力し、茶会の開催権や茶器の価値を高めて、領地や金に代わる新しい報奨制度を作り上げていきます。

しかも、政権内部で茶の湯が広まれば広まるほど、今井宗久たち会合衆の立場も、ただの商人から茶人という立場に向上していきます。

実際に、武田征伐を支えた滝川一益は、褒美として領地ではなく、茶器を所望したと言われています。

こうして、堺が有する経営資源と茶の湯の文化を提供していく事で、堺及び会合衆は、織田政権の統一事業を陰で支える強力なパトロンという位置付けを獲得していきます。

今井宗久などの会合衆は、こうした立ち位置を獲得する事で、堺やその自治組織を守ろうとしたのかもしれません。

茶の湯による大名サロンと利休の切腹

本能寺の変で討たれた信長に代わって、天下統一事業を引きついだ豊臣秀吉は、信長が残した遺産の多くも相続しましたが、統一が進むにつれて、徐々に秀吉独自のものへと切り替えていきます。

その中には、堺の商人である今井宗久や津田宗及、千利休も含まれています。

秀吉は、意図的に、信長時代に重用されていた今井宗久を、中央から外していき、代わって千利休を重用します。

大友宗麟が大阪に訪れた際には「公儀の事は秀長に、内々の事は利休に相談するように」と伝えるほどの信頼を得ていました。

また、利休は、自身が究めんとする茶の湯を通じて豊臣政権下の大名や武将とサロンを形成して、その取次等を行うなど、豊臣政権の不要な争いやトラブルを調整する役目も担っていたようです。

利休たちは、堺の経営資源を元に中央政権の内部にしっかりと食い込みつつ、茶の湯サロンを通じて全国の大名たちに大きな影響力を持ち始めていました。

ただ、この頃から、外様大名の取次役や堺や博多の奉行として、石田三成、小西行長、大谷吉継たち豊臣政権の吏僚たちも担当するようになり、徐々に経験やノウハウを貯めていきます。

石田三成を例にとれば、堺奉行として商業都市の運営管理に携わり、その経験とノウハウを活かして博多奉行として博多の復興に成功します。

取次についても、茶の湯を使う以外のアプローチとして、外様大名家の財政コンサル的な関わり方をして、信頼を獲得していきます。

秀吉は、自前で商業都市の運営や取次などに精通した人材の育成を行いつつ、商人も小西隆佐など堺色の薄い人材を重用して、堺の会合衆と距離を取り始めます。

そして、小田原征伐を終えて、関東・東北を支配下においたのちに、突如として武士ではない千利休に切腹を命じます。

利休の弟子である古田織部や細川忠興、蒲生氏郷などが奔走したり、前田利家や徳川家康などの影響力の強い大名がとりなしを行っても、切腹は覆りませんでした。

これは利休たちが有するサロンの政治力を、秀吉が完全に否定したものだと思います。

堺の代表でもある千利休が抹殺された事で、豊臣政権内部での堺の地位や発言力は大きく低下します。

当初から堺の会合衆が長年培ってきた大きな政治力の排除が狙いだったのかもしれません。

秀吉は、大阪城に経済や物流拠点を集約し、畿内各地から商人たちを集め、貿易や商業の中心を堺から大阪へと移動させます。

堺の会合衆は限定的な自治を維持できたものの、以前のような政治力は失い、地方の商業都市の一つになりました。

まとめ

堺が有する経営資源のヒト・モノ・カネ・情報・文化(茶の湯)が、信長や秀吉の天下統一の事業を支えていた事は間違いないようです。

高度な自治権を手に入れていた堺でしたが、勢力間の均衡を破る巨大な勢力を前にしては、従属的な協力をしていくしか生き残る道はなかったと思います。

今井宗久や千利休たち会合衆は、政権に利用されつつも、政権内部における堺の政治力を低下させないためにも茶の湯という文化の浸透などによって、地位を守ろうと試みたと思います。

ただ、大名たちを動かすほどに巨大になってしまった政治力は、秀吉にとっては邪魔でしかなかったのかもしれません。

例えば、コンサルタントが、顧問先の企業の経営者以上に、従業員たちから信頼や人望を得てしまうのは、警戒感を生み出すだけなので避けるべきです。

ちなみに、利休を排除した事で秀吉の死後、皮肉な事に徳川家康の政治力が抜きん出てしまう事になります。

千利休や豊臣秀次など、家康に対抗しうる存在を秀吉自身が排除した事で、徳川政権の樹立を後押ししてしまいました。

あと、利休の弟子である多くの大名たち(蒲生家、細川家、古田家、織田(長益)家、有馬家、金森家)は、関ヶ原の戦いで東軍についている点も興味深い事だと思います。




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