パーパス

【秀吉のパーパス】 パーパスを暴走させた要因

秀吉の壮大すぎたパーパスの暴走

天下静謐によって、日本が統一され、国内での大名間での戦争はなくなりました。

親兄弟ですら信用できない時代が終わり応仁の乱以来の平和な時間が訪れます。

戦国大名たちは豊臣政権に所属する事で、他者を警戒することなく、生活を送れる社会になりました。

マズローの五段階欲求でいうところの低次欲求の「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求」が満たされました。

さらに朝廷から官位を授かる事で、全国的に通用する社会的地位を与えられ、それぞれの「承認欲求」も満たされます。

かつての敵同士が一か所に集まり肩を並べて、茶や能を楽しめるようになるなど、数年前まで誰もが想像すらできなかった世界が実現しました。

秀吉は敵味方を取り込むなど融和的な方法も用いて、信長死後数年で天下統一を実現させました。

譜代家臣、外様大名も含めて多くの者たちは「朝廷の威光を背景とした天下静謐」が成ったと思っていました。

しかし、秀吉一人だけ、この天下静謐の状況に納得していませんでした。

そして徐々に組織と個人のパーパスに乖離が生まれ暴走を始めていきます。それが豊臣家の悲劇的な結末に繋がります。

 

悪夢の天下というキーワード

かつて天下という言葉は、五畿内を指すものでしたが、いつしか日本全国を指すようになりました。

その後、天下の解釈は日本全国を指すようになり、豊臣政権の元で天下静謐は達成されたと認識していました。

しかし、秀吉の中で天下というキーワードは日本という島国だけでなく、朝鮮半島や中国、台湾に留まらず、現在のフィリピンやタイ、そしてインドまでを含んでいました。

この頃の日本商人は東南アジアにまで進出し、各地に日本人町を形成しており、それは秀吉の認識の中にもありました。

朝廷の威光を背景とした天下静謐」は、想像を絶する世界帝国規模の壮大なスケールのパーパスでした。

そして、その第一歩として、ついに唐入りと呼ばれる対外戦争へと突き進みます。

日本の静謐で満足していた諸将にとっては、朝鮮半島に出征し中国の明軍と戦うのは、精神的にも財政的にも非常に負担の大きいものでした。

慣れない環境によって病をえて亡くなるものが続出し、秀吉の一門衆の豊臣秀勝も病没しています。

その不満や怨嗟は、秀吉亡きあとの豊臣政権の組織体制に向けられます。

体制を維持しようとする者と、体制を変革させたい者たちで主導権争いが起きます。それが関ヶ原の戦いです。

 

パーパスの暴走を止められない組織体制

誰もが望んでいない唐入りに諸将を参加させたのは、秀吉のカリスマ性に加え、豊臣政権の体制がなせる業でした。

豊臣政権は、家臣たちの意見を反映させる合議制ではなく、秀吉の意志を実行する独任制のような体制となっていました。

かつては、創業メンバーとも言える弟の秀長を筆頭に杉原家次などの一門衆や蜂須賀正勝、千利休などの古くからの側近が補佐し、ブレーキ役となるブレーンが支えていました。

しかし、1584年に杉原家次、1586年に蜂須賀正勝、1591年に秀長が亡くなり、同年に千利休を切腹させた事で、秀吉を頂点とした独裁的な体制となり、誰も秀吉の暴走を止められなくなりました。

文禄の役が始まったのが1592年というのも秀長や利休の死のタイミングと符号します。

気が付けば、秀吉は、信長からパーパスだけでなく、政権運営の手法まで承継していました。

天下というキーワードの乖離がありつつも、諸将は秀吉のカリスマ性が活きているうちは、そのパーパスに従っていたものの、秀吉の死後にそれまでの不満が爆発し豊臣政権を崩壊させてしまいました。

譜代大名の多くが徳川家康を支持したのは、家康なら現実的なパーパスを提示してくれるだろうという期待の表れだったと思います。

 

まとめ

秀吉の例は、パーパスが暴走していく中で、メンバーのパーパスとの乖離が大きくなり、組織を崩壊させてしまう実例だと思います。

特に、カリスマ性のある創業者ほど乖離に気付かない事が多いため注意が必要かもしれません。

パーパスの暴走の要因は、秀吉による独裁的な豊臣政権の体制にありました。

政権初期のように秀吉にブレーキをかけ、諸将の意見を吸い上げる事ができる体制であれば、大坂の陣のような結末にならなかったと思います。

現代の企業においても、組織と個人のパーパスの大きな乖離を防ぐために、ブレーキ役となる人間を側に置く事や、従業員の考えなどを吸い上げる機能を作るなどの工夫が必要です。

例えば、役員会や従業員を交えた会議で発言しやすいように外部からファシリテーターを呼ぶ、TOPと従業員のコミュニケーションを円滑にできるように2on2ミーティングを定期的に実施するなどです。

また、これらの施策を継続的に続ける事が大事です。




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