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【毛利元就】小早川隆景が実践し、理念の浸透に成功した毛利家

元就の理念の浸透が、脆い豪族の連合体を幕末まで維持

現在の広島県安芸高田市周辺の地方豪族であった毛利家は、毛利元就の代になって、その知略と才覚でもって、安芸、備後など中国地方の大半を領国とする112万石の大大名となりました。

前回の最上義光と同じく短期間で領国を拡大し、組織を急成長できたのは、毛利家も周辺の豪族を取り込んで、緩やかな連合体を形成していったからです。

有名な「毛利の両川体制」も、自分の息子の元春と隆景を有力な豪族の当主として送り込んで、自家へと取り込んでいくシステムの一端で、これによって毛利家を中心とした豪族の連合体を構築できました。

しかし、血縁関係があるとしても、それぞれが独立した豪族でもあるので、戦国時代の習わしとして、それぞれの利害によって立場を変えるものでした。

また、最上家のように一門内での争いに派閥争いが加わって御家騒動に発展する事もよくあります。

そこで、緩やかな連合体を一つにまとめるために、毛利元就は。毛利家の特に上3人の息子たちに理念の浸透を図ります。

組織としての理念を浸透させるには。下記のステップが必要と言われており、これに近い事を元就は行っていきます。

「言語化」経営者の想いを形にする
「共有」社員に共有されるような場を設ける
「内在化」理念が判断基準になるまで浸透する仕組みを設ける

 

同じ連合体組織である最上家が御家騒動によって大名格を失った事と、毛利家が関ケ原を生き残った違いは、この理念の浸透の成功にあったのではないかと思います。

今回は、その点を中心に考察していきたいと思います。

 

毛利元就は、理念を言語化し共有するために手紙というツールを活用

毛利元就は、自らが亡くなるまでの間に、息子たちや一門に対して、自分の経験を元にした下記のような訓戒を手紙として残しています。

  1. 天下を望まない事
  2. 毛利家の存続を優先する事
  3. 親兄弟親戚は仲良くする事

これは文章にする事で「言語化」し、手紙として長男の隆元、次男の元春、三男の隆景に「共有」を図っています。

有名な「三本の矢」は創作のようですが、その元ネタとなった「三子教訓状」という三人の息子に宛てた手紙が現存しています。

そこには60歳を越えた元就が、いい歳をした息子たちに、毛利家の進むべき方向性、もはや毛利家の理念というべきものを書き連ねています。

  • 毛利の名前を末代まで残す事が大事
  • 元春と隆景は毛利本家を大事にせよ
  • 三人とも仲良くしろ
  • もうとにかく三人は仲良くしろ
  • 妹とその婿も大事にしてやれ
  • 四男の元清、五男の元秋、六男の元倶は、虫けらみたいなものだが、もし才能があれば、大事にしてやってくれ
  • 私が今このようにしていられるのは不思議で仕方ない(お前たちでは無理だから真似するな)
  • 厳島神社を大事にしろ

現代でも、経営理念を自社に浸透させるのに、経営者が理念を語ったり、カードや手帳にして携帯させたり、毎朝に唱和させたりします。

毛利元就は、毛利家の幹部である三人の息子たちに、手紙を使ってしつこく何度も理念の浸透を図りました。

特に、上記の「三子教訓状」では、兄弟や一門を大事にしろというメッセージを何度も書いて聞かせており、紙幅2.85メートルにまで及ぶ大作です。

 

小早川隆景が理念の内在化を身をもって図る

TOPである経営者が、いくら熱く理念を語っても、社内や一般社員にまで「内在化」していく事は難しいと言われています。

毛利家の理念が浸透する大きなきっかけを作ったのは、父の元就、兄の隆元の死後、毛利家の中心人物として外交戦略を担当していた小早川隆景だと思います。

隆景は、父の元就が残した「天下を望まない」という理念を判断基準とした行動を取ります。

特徴的な例として、本能寺の変で混乱する織田政権への対応があります。

1582年、毛利家の備中松山城の包囲中に本能寺の変が起こり、織田軍の豊臣秀吉は、信長の死を隠しながら毛利家と講和を結んで、中国大返しという撤退を行います。

本能寺の変に気付き、秀吉軍を追撃しようと訴える兄の吉川元春を抑えて、小早川隆景は、追撃を行わずに、今後の情勢を見守る選択をします。

この選択は「拡大戦略を取らないという」元就の理念を判断基準として、中央への進出を積極的にはしないという態度を内外に示したと思います。

その結果として、毛利家は天下統一の野望を捨てる代わりに、豊臣政権での高い地位と112万石の領地を確保できました。

この時の隆景が示した毛利家としての対外姿勢によって、元就の理念は「内在化」され、関ケ原の戦いにおける吉川広家の行動へと繋がります。

隆景や元春亡き後に、毛利家を支える立場にあった広家は、積極的な当主の輝元の行動を抑えて、徳川家康への恭順を図り、毛利軍の合戦への参加を阻止します。

これも拡大戦略を取らないという判断基準に沿って、御家の存続の可能性が一番高い方を選んだ行動であったと考えられます。

しかし、関ケ原の戦いに積極的な者もいた事を考えると、毛利家内での内在化には完全に成功できていなかった事は否めません。

その辺りを追及され、敗戦後に、防長29万石への減封をされますが、広家たちの尽力により毛利宗家の存続に成功しました。

こうして、理念を忠実に守り行動した者たちのおかげで、毛利家は、戦国時代を経て、江戸時代も生き残り、明治維新へと繋がっていく事ができたと思われます。

 

まとめ

毛利家が組織に理念を浸透できたステップは下記の二段階かと思われます。

  1. 元就は、手紙を使って理念を「言語化」し、息子たちに「共有」を図った
  2. 上級幹部である隆景などが、理念を忠実に守る姿勢で「内在化」を示し浸透させた

企業理念を組織に浸透させるには、「言語化」「共有」を図った後に、経営陣や幹部が率先して忠実に守る姿を見せる事が重要なのようです。

そうする事で、理念が判断基準として、部下や一般社員の中に「内在化」するのかもしれません。

社内全体への浸透を図るには、まずは、経営陣や幹部クラスに徹底した理念の浸透を行う事から始めるのが重要と考えられます。

ちなみに、毛利家及び長州藩は、幕末において、毛利家を中心に京の朝廷を牛耳ろうとしたという、理念から大きく逸脱した行動を取ります。

その結果、禁門の変、第一次長州征伐を引きおこして、御家取り潰し寸前の惨憺たる状況に陥ります。

ただ、この辺りから毛利家の存続という枠を飛び越えて、日本の存続という視点に切り替わっていって、明治維新に至るのが面白い点です。




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