【立花宗茂】人間性というブランド力で大名に返り咲く

立花宗茂は、関ヶ原の敗戦で失った旧領を取り戻せた唯一の戦国大名

1600年に起きた関ヶ原の戦いで負けた西軍諸侯で、改易となり領地を没収された大名が、もう一度大名として復活できたのは、非常にまれです。

その中でも、10万石以上を得たのは、丹羽長重立花宗茂の2名のみです。

しかも、かつての旧領(筑後柳河)へ復帰できたのは、この立花宗茂ただ一人。

立花宗茂が大名として復帰できた最大の理由は、そのブランド力の高さだと思います。

豊臣秀吉や徳川家康などの最高権力者からも、その才能と人物性を認められ、同僚でもあった加藤清正や前田利長、島津義弘などからも浪人中に支援を受けたり、徳川譜代の本多忠勝にも世話をされたりと、人を引き付けるブランド力を持っていました。

さらには、第三代将軍の徳川家光からは、江戸城内で頭巾をかぶって、杖をついて歩く事を許された特別な存在として扱われるぐらいにまでなりました。

家光のお気に入り武将3人衆として、伊達政宗と柳生宗矩に引けを取らない厚遇ぶりです。

今回は、人を魅了してやまない立花宗茂のブランド力について見ていきたいと思います。

大友氏の庶流というブランドに加えて卓越した戦闘指揮力の高さ

鎌倉時代から続く豊後の名門大友氏の庶流である立花氏としてのブランドもありますが、義父にあたる立花道雪の数々の武功による道雪ブランドの高さの方が、貢献度は絶大だと思います。

しかも、実父である高橋紹運も、大友家の名将として九州ではその名を知られており、実父と義父の両方のブランド力を掛け合わされて、周囲から大きな期待を受けていたのが立花宗茂という武将です。

また、宗茂は、その大きな期待にそぐわない活躍をみせます。

  1. 豊臣政権による九州征伐での活躍
  2. 肥後国人一揆での活躍
  3. 文禄慶長の役での活躍
  4. 関ヶ原の戦いの大津城攻めでの活躍

特筆すべきは、肥後国人一揆で見せた「放し討ち」という敵方の捕虜と同じ人数で同じ条件で真剣勝負をするという武士の名誉を尊重した処刑方法を取った事です。

その大胆な方法に、監視役の浅野長政が畏れおののいて報告をした際に、秀吉が「さすが立花である」と絶賛したそうです。

また、文禄慶長の役などでも、鬼神のような活躍をして、同僚の小早川隆景加藤清正からも「立花家の3,000は他家の1万に匹敵する」などと絶賛されています。

こうした戦闘指揮能力の高さは、徳川家康からも高く評価をされていたようで、武田信玄や上杉謙信と比肩する武将であると賞賛したという記録が残っています。

この数々の武功と評価の高さもあり、大名としての復帰後も、大阪の陣や島原の乱などにも参加を要請され、適格な助言などをし、さらにその評価を高めています。

ただ、立花宗茂のブランド力の源泉は、この戦闘指揮能力だけではなく、その人間性の方こそ高く評価されていたようです。

それにより、立花宗茂の武将(商品)としての価値は、さらに高まりました。

謙虚さと義を重んじる人間性によるブランド力が、さらに商品力を高める

立花宗茂が、権力者や同僚だけでなく、家臣や領民までと幅広く、高い評価を受けるのは、その人間性によるものが大きいと思われます。それが立花宗茂の商品としての価値を大きく高めていきます。

名将言行録には「人となり温純寛厚。徳ありて驕らず。功ありて誇らず。」と書かれており、宗茂の謙虚な姿勢とその人間性が伺えます。

また、義を重んじる姿勢が表れたのが、関ヶ原の戦いで、家康側から東軍に付くように誘われても「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と断り、家臣からも西軍に勝ち目がないと進言を受けても「勝敗に拘らず」と、豊臣家から受けた恩義への忠節を示しました。

そして、関ヶ原の戦いでの敗戦後に、九州に戻る船に、家臣の反対を受けながらも、父を殺した島津義弘を「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と同乗させて、無事に九州に送り届けました。

島津義弘も、その宗茂の行動に感銘を受けて、九州に戻ると、黒田如水や加藤清正に攻められている立花軍を支援するための援軍を派遣したそうです。その後も、陰ながら援助をしたそうです。

こういった人間性が評価されて、領地を没収されて浪人となった後も、かつての同僚だった大名たちから援助を受けながら、蟄居生活を送ったそうです。

輝かしい武功の数々と、その温厚篤実な人間性に加えて、今は浪人中ということで無禄なので、徳川家としては買い時である事は間違いありません。

元々、徳川家康も高い評価をしていたので、徳川家としても非常に手に入れたい人物(商品)でした。

そして、宗茂が有するチャネルの中で、徳川家康に一番近いルートの本多忠勝の存在が重要になりました。

現代でも、身近な人間の口コミによる評価、特に損得勘定の少ない人からの口コミは信用性が高いものです。

そして、本多忠勝の推挙を受けて、幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)として登用され、その後、大名へと復帰を果たすと、秀忠や家光のご意見番として重用されました。

その結果として、秀忠や家光からの信頼が厚くなり、陸奥棚倉に1万石を与えられて大名に復帰した後、1620年には旧領である筑後柳河で約11万石の大名として復活します。

まとめ

立花宗茂のブランド力の凄さは、戦国という時代において、支配地の領民からも、猛烈な支持を得ていたことです。

関ヶ原の戦いで拠点の柳河城を降伏開城しようとした時に、領民たちが「殿様の為なら命を惜しまないから降伏しないで欲しい」と止めさせようとしたそうです。

徹底抗戦をすれば、領民たちにも大きな被害が出る事は明白でしたし、包囲している敵方には黒田如水や加藤清正などの信頼できる武将がいた事もあり、別れを惜しむ領民たちを何とか説得して降伏開城したようです。

権力者や同僚だけでなく、家臣や領民を含めて、ここまでの上下左右の幅広い支持を得ている立花宗茂のブランド力の強さは、尋常ではないと思います。

だからこそ、家康を含めた徳川家としては、島津家を筆頭に外様大名の多い九州に、どの階層からも人望がある宗茂を配置しておく事で、このエリアの安定が保たれるという計算もあり、旧領の筑後柳河に復活できたと言えます。

このブランド力の発揮が遅れたのが、同世代の真田幸村だと思います。

同じぐらいの能力を有しながらも、遅れた事でその後の明暗を分けたのではないか、という事で、いずれ改めて幸村とも比較をしてみたいと思います。

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