【真田幸村】実力をアピールする機会がなかった不運の名将

類まれなる武略と知略をプロモーションできなかった真田幸村の不運

1567年生まれの武将は、プラチナ世代とも言うべき人材が揃っています。

独眼竜こと伊達政宗や日本無双と呼ばれた立花宗茂に続いて、小早川秀包、秋月種長、有馬晴信など大名クラスが、真田幸村と同学年となります。

伊達政宗 仙台 62万石
立花宗茂 筑後柳河 10万石
小早川秀包 筑後久留米 13万石
秋月種長 高鍋 2万7千石
有馬晴信 日野江 4万石
真田幸村 不明 1万9千石

 

関ヶ原の戦いで東軍についた伊達政宗などは江戸時代を通じて大名として家名を残していきます。

また、西軍についた立花宗茂は、一度領地を没収されますが、のちに大名として復帰して、幕末には老中格を出す大名家として存続します。

同じ西軍だった小早川秀包は、関ヶ原の戦いで領地を没収された直後に病死してしまいますが、子孫は毛利家内で1万1千石の重臣として続いていきます。

しかし、真田幸村は、関ヶ原の戦いにおいて、父の昌幸と西軍として戦い領地を没収された後、一切、大名としてはもちろん、旗本としても取りたてられる事無く、九度山で蟄居させられていました。

その間に、同じ西軍として処分を受けた立花宗茂は、数年間の浪人時代を経て、将軍の相談役として旗本へ取りたてられ、すぐに大名へと復帰していきました。

幸村は、後の大阪の陣での獅子奮迅の活躍と、後世の評価の高さから考えると、関ヶ原の戦い以降の境遇は、あまり良いものではありませんでした。

その実力を、ほとんど誰からも評価されていないような状況です。

この違いは、どこから出てきたのかも含めて、幸村の経歴を見ながら考察していきたいと思います。

人質としての苦労と秀吉からの高い評価

真田家は、現在の長野県のいち豪族のため、武田家などの周辺の勢力に臣従することで、家名を守っていました。

外様であるにも関わらず祖父の幸隆や父昌幸は、武田信玄から高い評価を受けていました。

しかし、武田家が滅亡し、信長も本能寺の変で倒されてしまったことで、旧武田領に、上杉家、北条家、徳川家がなだれ込んで、天正壬午の乱と呼ばれる激しい勢力争いが始まりました。

昌幸は、それらの勢力の下を渡り歩きながら、秀吉政権に臣従する事で、真田家の独立を果たしました。

この時のイメージが強いせいか、徳川家から昌幸は非常に警戒されていたように思います。

その間、次男である幸村(信繁)は、織田家の滝川一益の元に人質として送られたり、次いで上杉家へ人質として送られ、最終的には、秀吉の人質として大阪へと送られました。

散々に苦労してきた幸村ですが、秀吉の元では、側近でもある馬廻衆に選ばれて、豊臣姓も下賜されるなど、高い評価を受けていたようです。

また、妻には、豊臣政権の有力者でもある大谷吉継の娘をもらっており、政権の中枢部にかなり近い立場におりました。

この側近としての立場が、幸村を最終的に大阪の陣で豊臣方へと導いてしまいます。

実力をプロモーションする機会がなくブランド力を高められなかった

当主の側近くに控える馬廻衆となった幸村は、秀吉が直接出馬しない限り、戦場へと出ていく事ができない立場になりました。

同年代である伊達政宗は、当主として南奥州の制覇をするなど、すでに実戦を何度もくぐり抜けており、一筋縄ではいかない戦国大名として周囲から認知されていました。

また、立花宗茂も同様に、九州征伐から肥後国人一揆鎮圧、文禄慶長の役での活躍などで、有能な戦国大名として、秀吉だけでなく家康からも高い評価を受けていました。

小早川秀包や有馬晴信、秋月種長も、いち大名として自前の部隊を率いて、文禄慶長の役に出兵し、それぞれ戦功を挙げていました。

しかし、幸村は、その他の合戦や文禄慶長の役へも参戦する事はなかったようで、記録にその名は残されていません。

秀吉から高い評価を受けた事で、逆に全国にその名を知らしめる機会を持てないまま、関ヶ原の戦いへと突入してしまいます。

また、やっと訪れたお披露目のチャンスでもある第二次上田合戦とも呼ばれる戦いで、徳川秀忠の軍勢3万8千を足止めに成功したものの、父の昌幸の指揮下で戦ったため、幸村の名を挙げるには至らなかった事です。

名将として名高い昌幸と一緒に行動をしたために、幸村の実力や才能は、その陰に隠れてしまったようです。

幸村は、秀吉からの高い評価によって、実戦能力の高さを示すチャンスに恵まれず、やっと訪れた上田合戦では、父の名声の前に擦れてしまうという不運が続きました。

戦国武将は、戦場などでプロモーション(披露)する場面がなければ、武将(商品)としての価値を世間に知らしめる事ができないため、そのブランド力を高める事ができません。

同じ西軍だった立花宗茂は、関ヶ原の戦いでも、自軍の総司令官として活躍をした事で、立花ブランドは高い評価を集めました。

幸村は、実力を見せるチャンスがないまま、九度山へと蟄居させられたことで、その能力は誰からも知られず、日の目を見る事無く15年が過ぎていきます。

大阪の陣で見せた活躍が後世での幸村ブランドを高める

大阪の陣で、豊臣家から誘いを受けた幸村は、躊躇することなく参陣を決めました。

敗軍が濃厚な大阪方に参加を決めた理由としては、秀吉の馬廻衆として豊臣家との繋がりが深かった事もあると思いますが、やっとその才能をプロモーションするチャンスが巡ってきたというのが本当かもしれません。

そして、大阪冬の陣では、幸村が考案した出城である真田山を拠点にして、徳川軍を散々に苦しめます。

幸村は、生まれて初めて、その高い能力をプロモーションできる機会を得る事ができ、それに成功しました。

一旦、講和を結んで停戦となった際には、幸村の実力を知った徳川家は、10万石での大名取りたてを条件に、寝返りを説得してきました。

お金や出世のためではなく、世の中に真田家、そして幸村の名を知らしめる事を目的としていた幸村は、その誘いを断りました。

また、父昌幸が、真田家の生き残りのために、従属先をコロコロと変えていたイメージを払拭し、幸村は、御恩ある豊臣家に殉ずる姿勢を見せて日本一の忠義者である事を世間にも後世にも示しました。

続く大阪夏の陣では、何度も徳川家康の本陣に攻め込んで、あわや家康が自害するかという状況にまで追い込み、自分の能力を評価しなかった事を後悔させることに成功しました。

結果としては、多勢に無勢もあり、大阪方は敗北し、幸村も討ち取られてしまいました。

しかし、この戦いを経て、幸村の名前は、家康だけでなく、島津、細川などの大名間でも高く評価されるようになり、日本一の兵と呼ばれるほどになりました。

その後、講談となって庶民の間でも、稀代の名将として広く知られるようになりました。

大名家として幸村の真田家は残りませんでしたが、現代での知名度や人気でいうと、同年代の武将の中では、幸村ブランドがダントツだと思います。

まとめ

もし、幸村が自身の部隊を率いて、文禄慶長の役へと出兵していたら、大阪の陣で見せたような活躍をしていたことは間違いないと思います。

その時に高い評価を受けていれば、関ヶ原の戦いの後に、15年も蟄居させられずに、立花宗茂たちのように、旗本などに登用されて、幸村も大名家として家名を残していたかもしれません。

いくら良い商品であっても、それをプロモーションできなければ、誰にも知られることなく終わってしまいます。

ブランド力を高めるには、まずは人に知ってもらう機会を作る事が大事だということが幸村の例から読み取れるのではないかと思います。

現代でも、これからは自分のブランド力を高める事が重要だと言われています。

そのためにも、自分の経験や能力をSNSやブログなどを活用してプロモーションし、その価値を幅広く認知してもらう事をお勧めします。

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