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【鍋島直茂】主家簒奪のイメージで評価を下げてる強力なリーダーシップ

もっと評価されても良いはずの鍋島直茂のリーダーシップ

戦国時代の九州における戦国大名御三家と言えば、大友家、島津家、龍造寺家というイメージがあります。

肥前の国人レベルから肥前、筑後、筑前、肥後や豊前の一部を支配する大名にまで押し上げたのが龍造寺隆信です。

そして「肥前の熊」という異名を持つ隆信を一門衆として支えたのが、従兄弟にあたる鍋島直茂です。

肥前を統一するまでの厳しいころは、直茂は厚い信頼を寄せられていたようですが、その距離の近さから、隆信に対して諫言する事も多かったようで、支配領域が北九州に拡大したころには、疎んじられるようになったそうです。

しかし、1584年の島津家との沖田畷の戦いで、隆信を含めた龍造寺家の主だったものが討ち死にし、生き残った直茂が敗軍をまとめて退却し、隆信の後継者の龍造寺政家を補佐し、龍造寺家を支えていく事になりました。

政家は、病弱だった事もあり、龍造寺の一門衆からの勧めにより、直茂が筆頭家老のような立場にて、龍造寺家の舵取りを行っていきました。

この家老という立場から、徐々に内外の支持を得て、最終的には龍造寺宗家と入れ替わって佐賀藩の統率者となります。

戦国という混乱期に求められるリーダーシップを有していたから統率者となりえたのですが、直茂は簒奪者というイメージが強いせいか、戦国武将の中でもあまり人気がありません。

この点、実力の割に人気のない三国志の曹操に近いかもしれません。

戦国時代に求められるリーダーシップ3項目

戦国時代に必要なリーダーシップは下記のような条件が考えられます。

  1. 戦に強く判断力や決断力に優れている
  2. 家中の者に報酬と地位を保全している
  3. 外部の権威から承認を得ている

戦国のような混乱の時代においては、現代の会社組織と違って、組織内から推戴されるリーダーシップの発揮が重要になってきます。

戦国時代には、江戸期のような主家への忠誠心というものが、家臣にはほとんどありません。

自分たちの一族の繁栄を保障してくれる存在に従うのが、普通の考え方でしたので、より強い者や良い条件を提示する者に従うのは当たり前でした。

(ちなみに、当主個人への強い敬愛はありましたので、当主が代わって出奔したり、当主が死んで追腹を切る事はありました。)

鍋島直茂は、上記のリーダーシップを龍造寺家内で示した事で、家中における執政の代行者から統率者へと立ち位置を代える事に成功しました。

1. 戦に強く判断力や決断力に優れている」という点では、良い条件での島津家への降伏をし、豊臣政権の九州征伐が起こるやいなや、豊臣方へと参陣して、積極的に島津討伐軍を先導しました。

また、文禄・慶長の役でも、直茂自身が渡海して、龍造寺軍を率いて異国の地にて、家中の者と一緒に戦いました。

2. 家中の者に報酬と地位を保全している」という点では、龍造寺家の家臣達は同僚でもあるため、変わらない報酬と地位の保全をしました。

特に龍造寺の一門衆には、とりわけ配慮し、小さな大名レベルの領地を分け与えました。

これは、後々の江戸幕府からの詰問において、効果を発揮しますが、大きなデメリットにもなります。

諌早家(龍造寺家晴)隆信の親戚2万6201石
多久家(龍造寺信周)隆信の弟2万1735石
武雄家(龍造寺長信)隆信の弟2万1600石
須古家(後藤家信)隆信の息子8200石

 

3. 外部の権威から承認を得ている」という点では、豊臣秀吉からの評価も高く、親子で豊臣姓を下賜されます。

秀吉から龍造寺家の家督代行者と認められた上、直接的に知行の割り当てを受けており、豊臣政権の承認を得た存在である事が、龍造寺家の内部にも示されています。

こうして、鍋島直茂は、上記の3項目を組織内に示すことで、龍造寺家内でリーダーシップを発揮し、執政の代行者から、統率者の地位を確立していきました。

簒奪者というイメージの悪さ

龍造寺家内でリーダーシップを発揮した事で、家中からの信頼を獲得し、また龍造寺一門衆からも信任を得て、佐賀藩のリーダーに就任しました。

前当主の直孫である龍造寺高房は、佐賀藩の実権の返還を求めて、江戸幕府に訴え出ますが、龍造寺隆信の弟や息子たちは、直茂こそがリーダーであるとする証言をし、幕府も直茂をもって佐賀藩の藩主として承認します。

リーダーとして自他ともに認められた直茂ですが、息子の勝茂に早々と家督を譲って、自らは藩主と名乗らずに、初代藩主を勝茂とします。

この辺りも、曹操と似ており、簒奪者の汚名を避けようとしますが、残念ながら後世からは簒奪者として見られてしまい、あまり良いイメージを持たれていません。

また、直茂の判断力の良さが、逆に爽快さを失わせているのかもしれません。

隆信が死んだあと島津家に従って、敵方の立花宗茂の籠る立花城を攻めますが、秀吉の九州征伐が始まると、即座に寝返って島津家に囚われていた宗茂の母と妹を救出したり、関ケ原の戦いで息子の勝茂が西軍について負けて帰国すると、徳川家への謝罪も兼ねて、また立花宗茂の籠る立花城を攻めて降したりします。

立場を変えずに戦う立花宗茂の爽快さや潔さとどうしても比較されると、自家に有利な方にコロコロと変わる直茂には小ずる賢い簒奪者というイメージになってしまいます。

家中の者たちの報酬や地位を保全するのがリーダーの仕事でもあるので、当時の直茂の立ち居振る舞いは間違いではありません。

まとめ

リーダーシップを発揮して、平和的に当主権を奪取するという非常に難しい所業をしたにも関わらず、現代における直茂の評価はあまり高いものとは言えません。

秀吉からも「天下を取るには知恵も勇気もあるが、大気(覇気)が足りない」と評されたように、力技や豪快さ、派手さが少なかったのが原因かもしれません。

しかし、直茂が示したリーダーシップについては、現代に置き換えてみると、企業の親族外による事業承継において、参考になる点は多いと思います。

戦に強く判断力や決断力に優れている成果を上げて会社の利益に貢献している
家中の者に報酬と地位を保障している部下に安心を与えて信頼を得ている
外部の権威から承認を得ている取引先や外部から信頼を得ている

 

このようなリーダーシップを発揮できれば後継者候補として社内外から推戴される可能性は高くなります。

推戴されるような期待が高まると、部下に成り代わって、上司や経営者に対して意見をする事を求められるようになりがちです。

ただ、逆に経営者からは、自分の地位を脅かす危険人物としてや、目障りな存在として警戒される可能性も出てきます。

当初は信頼されていた直茂も、最終的には当主の隆信からは疎んじられるようになってしまいました。

龍造寺家のような創業者が突然亡くなるような状況が起きない場合は、リーダーシップは、ほどほどに発揮するのがサラリーマンとしては得策だと言えそうです。




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