家名と親族の力で大名に復帰し幕末まで存続した京極家
現代でも、大手上場企業が業績悪化により倒産し、支援企業の元で業績を回復して、再上場を果たす例があります。
例えば、牛丼チェーンの大手の吉野家は、1980年の倒産からセゾングループの傘下となり支援を受けつつ、1990年に再度上場を果たす波乱万丈の歴史を持っています。
戦国時代にも、似たような経緯で、大名がいました。それが京極家です。
京極家は、守護大名から零落して、信長や秀吉の支援を受けて、戦国大名に復帰し、幕末まで存続しました。
京極高次の京極家は、室町将軍家の足利家と同じ源氏の家系であり、室町幕府で四織を務めるほどの名門の家柄でした。
四織は、室町幕府の軍事指揮権を持つ四家の守護大名を指します。
赤松家、一色家、山名家、そして京極家の四家です。ここに土岐家や今川家など数家が加わることもありました。
室町初期には、近江・飛騨・出雲・若狭・上総・摂津の6カ国の守護大名だった京極家も、戦国時代には北近江の浅井家に敗れて流浪に近い状態になっていました。
しかし、父の京極高吉が、織田信長に嫡子の高次を人質として差し出した事で、京極家の運命が動き出します。
室町の名門という強みが重宝される
妹婿の浅井長政を攻め滅ぼした信長ですが、北近江や若狭などの人心掌握のために、京極家の家名を利用します。
人質だった京極高次は、そのまま信長の家臣となり、近江や若狭の支配の正当性を示す役割を担いました。
ここで、6ヵ国の守護大名の名門という強みが活かされましたが、この段階では、まだ大名のような大領を得ていませんでした。
また、高次自身が目覚ましい武功を挙げて加増を得る機会もなく、織田家の元では、大名への返り咲きは叶いそうにありませんでした。
そこへ、1582年の本能寺の変が起こり、突然、大名復帰のチャンスが訪れます。
高次は、絶対的な支配者の信長に果敢に挑んだチャレンジャー側の明智光秀に加担して、旧領である近江エリアの回復を目指します。
もし、明智光秀がこのまま天下を取れば、創業の功臣として、京極家の大名への復帰も望めると踏んで、妹婿の武田元明と共に光秀に加勢しました。
このように、大名復帰への野望を諦めずに、一か八かの行動するのが高次の特長でもあり、今後もチャレンジを続けます。
しかし、あえなく光秀は、山崎の戦いにて、豊臣秀吉に敗れました。
高次は、縁を頼って伯母にあたるお市のいる柴田勝家の元へ逃亡しましたが、勝家も滅ぼされると、高次は窮地に陥ります。
妹の美貌という強みで許される
絶体絶命となった高次ですが、秀吉の側室となって寵愛されていた妹の竜子の嘆願によって、罪を許され、一命を保ちます。
再び、信長の人質時代のように、ゼロからのスタートとなりました。
その後、九州性別や小田原征伐へ傘下し、それらの功により、1万石の加増を得て、念願の大名へ復帰します。
最終的には、近江大津6万石の大名となります。
また、秀吉にも、その家名と血筋、竜子の存在を認められて、豊臣家の一門衆へと取り込まれていきます。
ここでも、京極家という家名が強みとして活かされていきます。
しかも、1587年に、お市の次女の初を妻とした事で、長女の茶々(淀殿)を側室とした秀吉とも縁戚関係に近いものを得て、豊臣家中での重みも増しました。
後に、三女の江が、徳川秀忠の正室となる事で、高次は、徳川家とも縁戚関係として繋がります。
茶々が豊臣秀頼を、江が徳川家光を産んだことで、さらに関係性が濃くなります。
高次は、特段の功績もないままに、気が付くと、織田家、豊臣家、徳川家の3家と濃い繋がりを持った珍しい存在となっていました。
国持大名への復帰を実現する
秀吉が亡くなると、豊臣政権は、家康派と三成などの奉行派に分かれて、内部抗争が激化していきました。
豊臣家の一門衆扱いの高次は、三成や西軍からの期待をよそに、家康の東軍に付いて、大津城で籠城し、西軍の毛利家と立花家と戦います。
ここでも、豊臣政権からの権力奪取を狙うチャレンジャー側の家康について行動をしています。
しかし、毛利家と立花家の猛攻を受け、城を明け渡して、高次は剃髪し、高野山へ上ることになります。
また、チャレンジを試みた結果、いつものようにゼロになりました。
ただ、今回は、関ヶ原の戦いで西軍が負けた事で、高次は、大津城での籠城の功を認められて、若狭一国8万5千石の国持大名として返り咲きました。
京極家 | 若狭一国8万5千石 |
赤松家 | 寄合旗本5000石 |
一色家 | 滅亡 |
山名家 | 高家旗本1000石 |
今川家 | 高家旗本1000石 |
土岐家 | 高家旗本700石 |
また、正室の初を通じて、徳川秀忠と義理の兄弟となり、長男の忠高の正室には、秀忠の四女を迎えた事で、徳川幕府においても一門衆に準ずる家となりました。
征夷大将軍となるために、源氏を標榜する徳川家にとっても、宇多源氏の京極家との縁戚関係は、願っても無い事でした。
こうして、京極家は、守護大名から国持大名として復帰した唯一の事例となりました。
その後、跡継ぎの問題で、大幅な減封を受けましたが、讃岐丸亀藩6万石の大名として、幕末まで存続しました。
まとめ
高次は、守護大名の名門としてのプライドを持ち、大名としての復活を諦めずにチャンスがあれば果敢に行動を続けていきました。
そして、度々、チャレンジャー側について、ゼロからスタートを余儀なくされていますが、自身の妻や妹の縁によって、危機を脱しています。
また、その京極家という家名に利用価値を見出され、信長、秀吉、家康の元で生き延びて、加えて、この3家と縁戚関係も結ぶことができました。
このように、高次の強みは、その家名の重さに加えて、家族や親族によるネットワーク力にありました。
高次は、運の良さという面も強いのですが、気が付けば、その時々の権力者と縁戚関係にありました。
秀吉も、家康も、元々の家格が高くない事もあり、名門の京極家との関係性は重要な意味を持ちます。
その結果、零落していた京極家は、戦国大名として復帰する事となります。
高次が、家柄という強みを活かしつつ、ネットワークを築き、常にチャレンジを続けた事が、大名としての返り咲きのポイントです。
現代の企業でも、苦境に陥った時に支援してくれるネットワークを持つ事、支援先が求める強みを持っておく事は大事です。