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【肝付兼亮】ビジョンの違いによって母や兄嫁によって追放される

現代でも起こりうる肝付兼亮の当主解任の理由

耳慣れない方も多い肝付氏は、現在の鹿児島県の東部にあたる大隅国の名族で、戦国時代においては、薩摩の島津家と互角に渡り合うだけの実力を持っていました。

肝付兼亮の父である名将の肝付兼続は、島津家との政略結婚を積極的に行って、外部環境を安定化させ、その間に大隅国を平定しました。

しかし、兼続の死の5年後に、後継者である長男の良兼が、37歳と若くして死んだことで、肝付氏の勢力の弱体化が始まりました。

そこで、兼続の妻の「御南」と良兼の妻の「高城」は、兼続の次男である兼亮に、良兼の次女を婚姻させて、肝付氏の後継者に指名します。

血縁関係がややこしくなるのですが、兄の死などによって弟が当主を承継する時に、兄の娘(姪)と婚姻する事が、現在の宮崎県にあたる隣国日向の伊東氏にも見られ、島津氏では叔母や従姉妹との婚姻も見られます。

そうして、第18代当主となった肝付兼亮でしたが、島津氏が義久を中心とした四兄弟による全盛期を迎えつつあったタイミングの悪さもあり、力及ばず島津氏に臣従する事になりました。

しかし、兼亮は、島津氏への臣従を不服として、日向に割拠する伊東氏と結んで、反抗しようと企みますが、御南や高城、重臣たちによって日向へ追放されてしまいます。

代わって、兼亮の弟が、兼亮の妻を娶って、第19代当主に担ぎ出されます。

現代でも起こりそうなこの当主の解任劇について考察したいと思います。

肝付家の存続という理念は同じだった

兼亮追放の主導的な立場にいたであろう「御南」は、島津貴久の妹として生まれ、政略結婚の一環として、肝付兼続の正室として嫁ぎました。

肝付兼続と島津貴久が対立した際には、兼続から実家の島津家に帰るように勧められますが、それを断ったと言われています。

基本的に、御南は、出身の島津家ではなく、肝付家の人間として、肝付家の存続を第一に考えていたと思われます。

もう一人の主導者である「高城」は、良兼の妻として、日向の戦国大名である伊東家から嫁いできましたが、兼亮による伊東家との連携よりも、島津家への従属を支持していたようです。

たぶん、このころには伊東家が、島津家との木崎原の戦いに敗れて弱体化が進んでいた事も考慮していたのかもしれません。

他家から嫁いできた御南と高城は、ともに肝付家の存続にとって確実性の高い行動を選択しようとしていたようです。

強勢になりつつある島津家と弱体化が進む肝付家を比較して、どんな形であろうと肝付家の存続こそが、肝付家に関わる御南や高城たちの理念になっていたと思われます。

もちろん、後継者に指名された兼亮も、肝付家の存続を望んでいたのは間違いないですが、それは大隅国に独立した戦国大名として割拠したいという思いが見え隠れしており、どこかで父や兄のころの栄光に囚われていたのかもしれません。

いつのまにか肝付家の存続という理念の元で、御南や高城と兼亮の中で溝が出来ていたようです。

理念に至るビジョンに大きな隔たりがあった

肝付兼亮が追放された理由は、下記の二つだと言われています。

  1. 伊東氏と結んで島津氏に反抗しようとしたこと
  2. 夫婦仲が悪かったこと

肝付家内に大きな発言力を持つ御南と高城は、肝付家の存続のためには、島津家への従属は必要な事だと考えていたようです。

一方、兼亮は、父や兄の時代のように大隅国で独立割拠する事こそが、肝付氏の存続には重要な事だと考えたいたようですが、残念ながらその考えは、肝付家内では支持されませんでした。

つまり、肝付家の存続という理念は同じですが、その理念への過程でもある各々のビジョンに大きな隔たりがあったと思われます。

「肝付家の存続」という理念
御南や高城のビジョン兼亮のビジョン
島津家と共存し協力していく島津家から独立し大隅国に割拠する

 

組織のオーナーとリーダーが、組織の存続に対するアプローチの仕方が真逆だったのが、当時の肝付家の状況でした。

この状態を危険であると組織のオーナーである御南や高城が判断して、強権を発動してリーダーの解任を行ったのが、兼亮追放劇の真相と見ると分かりやすいかもしれません。

そこに加えて、夫婦仲の悪さもあり、兼亮を支持する存在が家内にいなかったのも、追放の要因になったようです。

まとめ

兼亮追放によって、さらに肝付家の勢力は弱体化し、島津家での立場も弱くなりました。

結果として、肝付家は、島津家で100石取りの家臣にまで家格を落としますが、幕末まで存続する事はできました。

途中で直系の子孫は途絶えてしまいましたが、養子を迎えることで肝付家の家名を残すことはできたので、御南たちの判断は正しかったとも言えます。

ちなみに、庶流にあたる喜入肝付家は、早くから島津家の家臣として活躍をしており、5,500石取りの重臣として存続し、幕末には小松帯刀を輩出しています。

もし、御南たちと兼亮でビジョンのすり合わせが出来て、あの時点で島津家に貢献していれば、その後の島津家での立場も違ったのかもしれません。

組織を永く維持するためには、理念の浸透だけでなく、ビジョンの浸透も重要だと思わされる事例のような気がします。




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