赤穂事件(忠臣蔵)における見えないリーダーシップと見えるリーダーシップの比較
強力なリーダーシップを発揮した歴史上の人物というと、戦国時代や幕末のリーダーを思い浮かべる事が多いと思います。
例えば、下記の有名人などでしょうか。
- 織田信長
- 豊臣秀吉
- 徳川家康
- 島津斉彬
- 西郷隆盛
- 大久保利通
戦国や幕末のような動乱期に、力強いリーダーシップで組織を引っ張っていく英雄(リーダー)たちは、後々まで語れる事績が多く残されています。
これは、まさに、誰からも見えるリーダーシップです。
しかし、戦のない平和な江戸時代の元禄の頃であっても、各藩のリーダーは、大小の違いはあれどリーダーシップを発揮しているはずです。
この時代の藩主たちに対して、リーダーシップが無い、何か物足りないように感じるのは、リーダーシップとマネジメントを混同しているからかもしれません。
ジョンP.コッターによると、リーダーシップとマネジメントは区別すべきものとされています。
- リーダーシップとは
「将来のビジョンを示してメンバーに方向性を理解させ、変革を推進すること」 - マネジメントとは
「組織の調整や統制を行うために複雑な環境に対処すること」
この二つは混同されがちですが、全く違うものですが、この二つは補完関係にあるとしています。
江戸時代の藩主のリーダーシップとは
平穏な江戸時代になると、藩主は象徴化しており、君臨すれど統治せず、つまりマネジメントは家老以下の家臣に任せているのが通常でした。
この時代の藩主が担うのは、象徴としてのリーダーシップで、暗黙のうちに示していたであろう長期的なビジョン(針路)は、下記だったと思います。
- 幕府に信頼される誠実な藩である事
- 御家を安定的に永続させる事
藩主は、ひたすら幕府への恭順の姿勢を示す事により、無言のうちに家臣にこのビジョンを示し、藩を導いていたはずです。
「みんな!幕府に信頼されよう!」「御家の安泰が第一だ!」と声高に、藩主は叫びません。
つまり、見えないリーダーシップです。
もちろん家臣達も、御家が取り潰しになると、募集の少ない再仕官先を探さねばならないため、今、仕えている御家の安泰は死守すべき事項です。
無言のうちに、そのビジョンのもとで、統合され動機づけされていたと思います。
では、見えないリーダーシップは、見えるリーダーシップより劣っているものなのでしょうか?
ということで、忠臣蔵で有名な赤穂事件を起こした赤穂藩の浅野内匠頭のリーダーシップと大石内蔵助のリーダーシップを例に比較してみたいと思います。
浅野内匠頭の見えないリーダーシップ
潜在的な反幕府感情がある薩摩藩や長州藩とは、赤穂藩は歴史的な経緯が違うので、浅野家の長期的なビジョンも下記であったと思います。
- 幕府に信頼される誠実な藩である
- 御家を安定的に永続させる
赤穂藩内において、あえて言語化されてはいないとしても、暗黙の了解的な事項であったはずです。
浅野内匠頭は、若いころから幕府からのお役目である「朝鮮通信使饗応役」「勅使饗応役」「火消し大名」などを無事にこなしています。
1693年に、備中松山藩が改易となり「松山城の城請取役」を幕府から命ぜられた際には、3500名の軍勢を引き連れて松山城の引き渡しに無事に成功させています。
ここまで、浅野内匠頭は、地道に幕府の信頼を積み重ね、赤穂藩を存続させるための努力をしています。
その間も、家臣間による大きな派閥争いによる御家騒動や領民による農民一揆なども起きていないようでした。
織田信長のように目立つような事績はないものの、士分約260人のメンバーを統合している点からも、見えないリーダーシップを発揮していたのではないかと考えられます。
このまま次代へと繋げる事ができたなら、名君とまでは行かないにしても、良きリーダーであったと言えるはずでした。
しかし、浅野内匠頭は、なぜか江戸城の松の廊下で、吉良上野介に脇差で切りつけて、赤穂藩を、地獄のどん底に突き落とします。
江戸城内での刃傷沙汰は、御家取り潰しとなった稲葉正休事件の前例もある事から、浅野内匠頭は自分の行動が招く結果を分かっていたはずです。
吉良上野介との間に何があったのかは、明白な資料がないので分かりませんが、浅野内匠頭は、突然にビジョンを放棄します。
その結果、幕府からの信頼を失い、御家は取り潰しとなりました。
見えないリーダーシップを持っていたとしても、自ら組織を崩壊させてしまっては、リーダーとして失格と言われても仕方がないと思います。
大石内蔵助の見えるリーダーシップ
事件後、筆頭家老の大石内蔵助は、藩主に代わって、残された赤穂藩士を率いるリーダーになります。
メンバーに、新しいビジョンを提示せねばならない立場になりました。
主君の仇討を急ぐ堀部安兵衛などの江戸の急進派の暴挙を抑えつつ、幕府の指示通りに赤穂城を引き渡して、下記を提示します。
- 幕府に敵対しない誠実な藩である
- 弟の浅野大学による御家再興と御家の永続
これによって、「吉良邸討ち入り」「御家再興」など意見に違いがあった約120人ほどの家臣達を、ギリギリのバランスの下で一つに纏めました。
大石内蔵助は、この危機的な状況において、誰からも見えるリーダーシップを発揮していました。
しかし、刃傷事件に対する徳川綱吉の怒りは強く、御家再興の望みは無念にも断たれたました。
ここで、大石内蔵助は、次のビジョンを提示できればよかったのですが、それもままならず、考えに違いがある「メンバーの統合」「動機づけ」もできなくなりました。
そして、メンバーの6割ほどが離脱し、吉良邸討ち入りの時点には、大石内蔵助以下47人にまで減ります。
残されたのは、暴発組の赤穂浪士たちだけとなりました。
ビジョンも何も無い、ただただ「吉良上野介を誅する」という短期的な計画の遂行というマネジメントだけに、大石内蔵助は集中していく事になります。
ただ、大石内蔵助はマネージャーとして、かなり優秀だったようで、討ち入りに関する準備を入念に行い、必要な諸経費を丁寧に帳簿をつけるなど、優れたマネジメント力を発揮します。
大石内蔵助のマネジメント能力により、吉良上野介を討ち取り、恙なく仇討は成功します。
リーダーシップとマネジメントに優れている大石内蔵助は、戦国時代や幕末の英雄に近い評価を今でも受けています。
物語としては華やかなではあります。しかし、討ち入りのメンバー全員は、斬首という不名誉な処罰は逃れたものの、それぞれ切腹となりました。
まとめ
リーダーとは、メンバーに対して、ビジョンを提示しつづける事ができる者だと言えます。
長期的なビジョンがあるからこそ、メンバーの統合や動機づけができるものであり、ビジョンを失えば、すなわち組織の崩壊を招くという一つの例を、赤穂事件(忠臣蔵)は、示しているのかもしれません。
結果として、ビジョンを自分勝手に放棄した浅野内匠頭はリーダー失格で、大石内蔵助はリーダーシップとマネジメントを有する英雄に見えますし、そういう評価も多いと思います。
しかし、浅野内匠頭が示す暗黙の象徴としてのリーダーシップは、士分260人ほどを纏めていました。
マネジメントに優れた大石内蔵助のリーダーシップで纏められた人数は、約120人程度と半数となり、最終的には47人になりました。
約260人もの多様な価値観の家臣を纏めていたと考えると、浅野内匠頭の象徴としての見えないリーダーシップは、我々が思うよりも強力なものであっとも言えると思います。
もしかすると、その力強さは、浅野家と家臣の何世代にも渡る関係性が生み出しているのかもしれません。
ちなみに、見えないリーダーシップの最大級の人物に、幕末の長州藩藩主の毛利敬親がいます。
リーダーシップも奥が深いですが、歴史に当てはめて見ていくと面白いと思います。