【津軽為信】情報力と行動力で独立に成功した弘前藩の創業者

強力な情報力と諦めない行動力で独立に成功した津軽為信

成功している企業の創業者の多くが持っている要素として、ターゲットとする市場の動向や、目に見えないニーズなどを引き出す情報力も重要ですが、やはり失敗をしても諦めない行動力が重要な能力だと思います。

ホンダの創業者の本田宗一郎氏も、オートバイの開発に何度も失敗をし倒産の危機に瀕しても、銀行などからの支援を受けながら、諦めずにチャレンジを続けて開発に成功し、世界のホンダの足掛かりとしました。

戦国時代にも、南部家からの独立を掛けて戦いながら、何度も西上にチャレンジし、何度も失敗を繰り返しながらも、ついに739kmを駆け付けて、本領安堵を引き出した創業者がいました。

それが幕末まで続いた弘前藩の創業者の津軽為信です。

現在の青森県の津軽を本拠としているため、当時の日本の中央とは925km以上も遠方にありましたが、その距離をものともせずに、豊臣秀吉の中央政権に食い込んでいく情報力と行動力を有していました。

独立後も、旧従属先である南部家による妨害もありましたが、それを先回りするような行動と適格な根回しで、津軽家存亡の危機を回避しました。

この情報力と行動力は、現代の経営者にも重要な要素だと思います。

今回は、独立に成功した津軽為信の情報力と行動力について紹介したいと思います。

遠距離をものともしない類まれなる情報力

現代のようなインターネットがある時代でも、世の中に氾濫する情報の真偽を確かめるには、相当な情報収集力が必要です。

電話やテレビもない戦国時代では、日本の中央との距離というのは、情報の面では、かなり不利な要素になります。

津軽為信は、地理的な不利を補うために、中央に近く情報力の高い名将の最上義光と友誼を結んで、自身の情報不足を補います。

義光にとっても、周辺国の秋田家と南部家の背後を脅かす存在になる為信との同盟は有意義だったようです。

為信は、独立のために南部家との抗争を続けていましたが、中央に出来上がりつつある巨大な政権に注目をし続けて、秀吉が徳川家康を臣従させた事を知ると、豊臣政権への誼を通じるために行動を起こします。

豊臣政権という巨大な力を使って、独立の承認を得て、南部家との抗争に決着をつける事を決断します。

秀吉が公家へと接近している情報を手に入れると、自身も京都へ向かって近衛家に金品を送るなど誼を通じます。

また、秀吉の非常に近い存在である石田三成や豊臣秀次、織田信雄が、鷹狩りが趣味だと知ると、津軽名産の鷹を送り、関係性の強化を図ります。

情報やネットワークが重要だると知っている為信は、最上義光との関係性を皮切りに、近衛家や三成、秀次などとのルートを確立していきます。

その最終形態として、自身の長男の信建を、秀吉の嫡子の秀頼の近習として、仕えさせる事に成功します。

中央政権との情報ルートを強固なものに完成させます。

よほどの関係性が確立できていないと天下人の世子の身の回りに控える事は認められないと考えると、天下人の秀吉だけでなくその側近たちからの信頼もかち得ていたと考えられます。

戦国時代においても情報力が重要だと認識していた点が、為信の独立を成功させた要因の一つだと思います。

何度失敗しても諦めない行動力

経営者において重要な要素として、最大のものは諦めることなく行動し続けることだと思います。

何度も失敗しても、それらの失敗を糧として、再度チャレンジをしていく事が、成功への道だと、本田宗一郎も「私の現在が成功というなら、私の過去はみんな失敗が土台作りをしていることにある。仕事は全部失敗の連続である。」と述べております。

為信も、南部家からの独立を承認してもらうために、秀吉との謁見を目指して、何度も西上を試みます。

しかし、周辺の敵方の妨害を受けたり、悪天候に見舞われたりで、何度も失敗を繰り返します。

その中で、最終的に、敵方だった秋田家と和議を結ぶ事に辿り着き、現在の秋田県から山形県へと抜ける安全な西上ルートを確保し、家臣を上洛させる事に成功しました。

ルート 原因
1585年 鰺ヶ沢より海路ルート 暴風に巻き込まれ失敗
1586年 矢立峠を越えるルート 浅利氏の妨害で失敗
1587年 南部領を突っ切るルート 南部氏の妨害で失敗
1588年 秋田口から進むルート 秋田氏の妨害で失敗
1589年 秋田口から進むルート 秋田氏と和議を結んで成功

 

秀吉から本領安堵の約束をもらい南部家からの独立に一定の目途を付けることに成功しました。

その後の小田原征伐には、為信自身が参陣して、秀吉に謁見し、独立大名としての立場を確実なものとします。

それに合わせて、京に赴いて、公家の近衛前久に金品を献上するなどの援助を行い、近衛家との関係性を強化して、前久の猶子となる事に成功しました。

秀吉も前久の猶子となっていた事から、形上での義兄弟の立場を手に入れました。

諦めない行動力で独立に成功し、更に義兄弟の立場を手に入れて、豊臣政権との関係性の強化にも成功しました。

失敗を繰り返しながらも、諦めずに行動をし続けた事で、幕末まで続く大名としての道が開かれました。

 

まとめ

津軽為信は独立するまでの戦い方から梟雄と言われたりもしますが、僻地である不利な条件をものともしない情報力と行動力は、名将の評価に値すると思います。

多くの経営者も、情報力やネットワーを大事にし、諦めない行動力で突き進んでいく事で、苦境を抜け出して大きく成長しています。

もしかすると、何があっても途中で諦めない意思の強さが、幸運を引き寄せているのかもしれません。

ちなみに、為信は、関ヶ原の戦いで西軍が敗れた際に、秀頼の近習として仕えていた信建を通じて、石田三成の次男重成を津軽で匿っています。

その後も、津軽家の家臣として、三成の次男の系統が、幕末まで重臣として残りました。

以前に起きた南部家による領地召し上げの危機などを、三成たちの執り成しで事無きを得た事への恩返しをしたのかもしれませんが、為信たちの人的なネットワークに対する姿勢の一端が伺えます。

こういった受けた恩に対する誠実な姿勢も経営者にとっては大事なものかもしれません。

  • B!

人気の記事

1

伊達政宗の独眼竜ブランドを活用した生き残り戦略 南奥州の覇者とも呼ばれる伊達政宗ですが、年齢的には織田信長の孫の織田秀信と近いので、信長や秀吉よりも三世代も若い戦国大名です。 若手のイメージの上杉景勝 ...

2

現代にも通じる中小大名の生き残り戦略の巧みさ 戦国時代は、乱高下の激しい時の証券市場のように、一つの判断を誤るだけで大損失ならぬ大被害に合い、御家の滅亡に繋がります。 特に、真田家のような10万石以下 ...

3

豊臣秀吉や明智光秀を輩出した織田信長の人事制度 戦国時代に、革新的な事績を残した戦国大名と言えば、織田信長を思い浮かべる方が多いと思います。 ただ、昨今の研究では、かの有名な楽市楽座を初めに導入したの ...

4

剣術に禅の精神性・思想性を加えて差別化した柳生宗矩 柳生十兵衛が有名な柳生家は、現在の奈良市の柳生町周辺にあった柳生庄の土豪として、戦国時代には松永久秀の配下として、大和国内の戦などで活躍していました ...