【雑賀衆】巨大な戦力に対する小さな組織の失敗例

巨大な組織の参入に対する小さな組織が採るべき戦略

戦国時代に鉄砲を所持した傭兵集団の雑賀衆は、大阪の石山合戦で反信長の急先鋒として戦った存在として有名です。

雑賀孫一というリーダーの元で、攻め寄せる信長軍に辛酸を舐めさせたというイメージが強い雑賀衆ですが、実際は和歌山県の紀ノ川周辺に点在する5つのエリアの地侍の集合体でした。

鉄砲の技術による傭兵を生業とする事もあったため、敵味方に分かれて戦うこともあったようです。

それぞれ「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷」「南郷」「宮郷」という5つの地域が合議制によって方針を決めることもあったようですが、自分たちの利害によって、それぞれが独自に行動する事も多かったようです。

一人のリーダーの元で纏まった組織ではなく、独立性を有した小さな組織の連合体でした。

信長のような巨大な勢力の前では、風前の灯でもありますが、毛利家や上杉家、長宗我部家などの反信長の大名や、根来衆や高野山などの他勢力とのネットワークにより、小さな組織であっても対抗できていました。

しかし、秀吉の時代になって、その連合体の限界が出て、豊臣政権によって制圧されてしまいます。

戦国時代のような軍湯割拠時における小さな組織の利点と限界について考察したいと思います。

各勢力が均衡している安定した環境

戦国時代の中期ごろ、織田信長による統一事業が進むまでは、畿内エリアは、諸勢力が割拠する事で、ある種のバランスを維持しておりました。

畿内の大名にとって、堺の会合衆、本願寺、比叡山、高野山、興福寺、根来寺、雑賀衆などの軍事力や経済力を有する諸勢力は、協力を仰ぐべき存在で、敵対して殲滅すべき対象ではありませんでした。

また、それぞれの勢力は、緩いネットワークでつながっており、団結したり対立したりを繰り返しつつも、現状の環境を維持する事で一致している事業クラスターや事業組合のようかもしれません。

さらに堺の会合衆や雑賀衆は、その組織自体が組合のようで、合議制で連合体の方針を決める事もありますが、そこに参加している小さな組織は、それぞれの思惑で行動する事もできました。

この自主性の高さは平時では利点が多いのですが、巨大な勢力と対するよには限界が見えてきます。

織田信長が畿内を制圧するために石山本願寺を攻略しようとした際には、雑賀衆の一部は、本願寺勢力に味方して、その特長である鉄砲を使って散々に織田軍を苦しめます。

当時の織田家は、周辺に敵対する大名や諸勢力が包囲網を形成していたこともあり、雑賀衆に戦力を集中する事ができない状況だったことで、第一次紀州征伐の軍勢を向けられても、その勢力を維持できておりました。

しかし、本願寺が降伏したことで、織田家による畿内の覇権が確立し、雑賀衆の討伐に戦力を大きく割けるような情勢になると、雑賀衆の連合体の中での意見が割れて、主導権争いが起こるなどの動揺を見せ始めした。

巨大な戦力による環境の変化

戦国時代の初期のような混乱期においては、各勢力のパワーバランスの元で、小さな組織も一定の存在感を持てます。

しかし、石山本願寺を包囲していた大きな軍事力を、紀州方面に行使できるようになった織田家の前では、和歌山県の紀ノ川周辺の小さな連合体は風前の灯火のようなものです。

この状況を素早く察した雑賀孫一(鈴木重秀)は、雑賀衆の存続を考えて、親織田として雑賀衆をまとめようとしますが、反織田の土橋守重と意見が対立し、内部抗争の末に土橋守重を誅殺し、親織田に方針を決めます。

堺の会合衆のように、小さな組織の限界を見越して、巨大な戦力との共存を図ろうとしたのは、良い判断だったと思いますが、連合体という組織の常として、全体方針が纏まらないことで、主導権争いを起こしてしまいました。

その後、本能寺の変で信長が斃れると、身の危険を察した鈴木重秀は逃亡し、雑賀衆は土橋氏を中心として、反豊臣の立場をとり、徳川家康に協力して、大阪に攻め込んだりします。

ただ、小牧長久手の戦いまでは、豊臣政権も脆弱でしたが、徳川家康とも講和し、周辺国の毛利家や上杉家と協力関係を築いていたため、巨大な戦力を第二次紀州征伐に投下できるようになりました。

雑賀衆は、方針を転換しないまま、約900万石の豊臣政権に対して、根来衆、高野山を合わせて数十万石~100万石ほどの戦力で対抗する事になりました。

第一次紀州征伐で講和に持ち込めた成功体験が判断を間違えさせたかもしれません。

当時は織田包囲網が残っており、雑賀衆のような小さな組織でも対抗できていた事を理解できなかったようです。

第二次紀州征伐により、雑賀衆は制圧され、壊滅してしまいました。

まとめ

諸勢力と言う小さな組織は、戦国のような混乱期には、その存在感を発揮できますが、巨大な勢力によって混乱が収拾されていくと、その中に埋もれていきます。

堺の会合衆などは、環境変化に合わせて、武装解除し商業に特化して、細々とながらも生き残る事を選びました。

本願寺や高野山なども武装解除し、余分な領地を返上する事で、宗教組織としての生き残りを図りました。

雑賀衆も、早い段階で、武装解除し、自身の得意とする鉄砲や貿易などの分野に特化する事を選択していれば、商業や技術力の組織体として存続できたかもしれません。

これを現代の中小企業の生き残り戦略に似ています。

豊臣政権のような巨大な資本が市場に参入してきても、真正面から対抗しようとせずに、自身の得意とする分野に特化をしていく事で、ニッチな分野で優位性を確保でき、存在感を維持できるというものです。

戦国時代の成功例と失敗例を比較していくと、現代に活かせる知見が見えてきそうです。

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