明智光秀と本能寺の変をSWOT分析する
前編の「明智家が置かれていた環境を3C分析で垣間見る」から、本能寺直前の明智光秀の置かれている環境を下記のように分析しました。
①戦乱も終わり、織田家による新しい体制が始まる雰囲気
②信長からの厚い信頼による畿内方面軍の地位と兵力
③競合でもある羽柴秀吉や柴田勝家などの各方面軍の活躍
各方面軍の活躍によって、織田家の支配領域は拡大して、本能寺直前の段階では、畿内・東海・北陸を傘下に収めていました。
明智光秀も、丹波と近江・山城の一部を与えられて、丹後・大和・摂津を与力とした畿内方面軍の司令官的な立場となり、織田家の内部においても高い地位を得ていました。
このまま天下統一が実現すれば、建国の功臣として、明智光秀及び明智家の繁栄が期待できたのに、それを本能寺の変によって霧散させてしまいます。
前回の3C分析の段階まででは、その動機は全く読み取れません。比較的、信長からの信頼を受けているように見えますし、上り調子にしか見えません。
今回は、1582年の本能寺の変の直前の光秀をSWOT分析してみました。
このSWOT分析の結果をヒントに明智光秀の謀反の動機について探っていきたいと思います。
交差する光秀の強みと弱み
光秀は、織田家の支配領域の中心でもあり、日本の中心地でもある畿内の統括を任されるほど、信長から大きな信頼を得ている事は確かなようです。
その源泉となるのは、攻めにくい丹波国を攻略したその戦闘指揮能力の高さと、占領地に奉行として派遣されるなどの行政能力の高さです。
朝廷がある山城の一部を与えられて、京の代官的な役務をしていた事からも、信長から高く評価されていたのが伺えます。
しかし、先祖代々の譜代家臣が少ない織田家中でも、遅くに織田家に加わった光秀は、外様に近い立ち位置にいたと言われてます。
そんな中で、その働きぶりや能力によって、ごぼう抜きで方面軍の司令官に上り詰めたため、古くからの家臣団の内部では嫉妬や怨嗟があったかもしれません。
外様である光秀の織田家中での立場は、信長からの信頼によってのみ確保されていたと言えそうです。
そして、その信頼は、パイプ役として織田家内で奉公していた光秀の妹と言われる御ツマキの存在が、あったおかげとも言われています。
ただ、この御ツマキが、本能寺の変の前年1581年に死去しており、タイミングとしては非常には絶妙です。
織田家内との繋がりとしては、一門衆で上席に位置する津田信澄に娘を嫁がせているので、ぬかりは無いはずでしたが、逆にこの信澄の存在が光秀の行動に影響していたかもしれません。
あと、織田家中では、光秀が長年にわたり四国の長宗我部家との申次(連絡窓口)を任されていました。
もし、四国征伐の命が下る場合は、畿内方面軍という大兵力を率いる自分が司令官あろうと思っていた可能性は高いと思います。
四国方面の担当から外される
以前に畿内方面を担当していたのは織田家の譜代家老でもあった佐久間信盛でしたが、長年の本願寺攻めが終了すると、突如、高野山へ追放されてしまいました。
信長から送られてきた19ヶ条の折檻状で、「三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている」「数年の間ひとかどの武勲もない」と書かれている点からも、譜代や重臣に関係なく、結果や貢献を求められるのが織田家の特徴のようです。
- 柴田勝家は、加賀を平定後、上杉家を相手に北陸方面の制圧を進行中
- 滝川一益は、武田家討伐で功績を挙げて、上野を支配しつつ、北条家を睨みながら関東制圧を準備中
- 秀吉は、毛利家を相手に山陽方面だけでなく、山陰方面も調略と城攻めを織り交ぜて、中国地方の制圧を進行中
光秀のライバルでもある各方面軍は、どんどんと武勲を挙げて、織田家の支配領域を拡大させており、本来であれば、長宗我部家の申次をしていた光秀は、四国方面軍に抜擢されるはずでした。
しかし、四国方面軍の司令官には三男の織田信孝が指名され、また司令官を支える副将にも任命されず、光秀は完全に四国方面軍から外されてしまいました。
そして、担当する方面を持たない巨大な遊軍の司令官という位置づけとなり、中国方面軍の秀吉の救援を命じられています。
これは、バリバリの営業マンが、自分の担当エリアから外されて、各事業のサポートをする本社の役員に異動になったようなものだと思います。
事前にきちんとした説明がなかったとしたら、この異動は、見栄えの良い左遷か上がりのポストではないかと勘繰ってしまうと思います。
織田一門衆の重用と信長側近の発言力
それらを裏付けるのは、娘婿の津田信澄が、四国方面軍に加わっている点で、まるで光秀の代役のような位置づけにも見えます。
ちょうど、この頃から、武田家討伐は長男の信忠が司令官として出陣したり、次男の信雄が伊賀征伐の中心に、三男の信孝が四国征伐の司令官に、与力に甥の信澄を加えたりと、織田家一門衆の重用を進めています。
子供のいない秀吉は、四男の秀勝を養子に迎えて、自身の所領を織田家の人間が引き継ぐ事が決まっていました。
光秀の嫡男については、光慶という名前が記録に出てくるものの事績がほぼ無く、存在したとしてもかなりの若年だったとも言われており、明智軍団は娘婿の信澄が引き継ぐ流れだったかもしれません。
この時期の光秀の環境を見る限りは、その強みを最大限に活かせる機会を与えてもらえていないように見えます。
また、中国では皇帝の側近くに使える者の讒言などによって、地方で戦う将軍が地位をはく奪される事はよくありました。
織田家においても側近たちが発言権を強めてきていた様子が光秀の「明智家中法度」の第一条に「織田家の宿老や馬廻衆に途中で見かけたら、その場の片方へ寄り、丁寧にかしこまってお通し申しあげること」とありました。
もしかすると、パイプ役の御ツマキが亡くなったことで、外様である光秀の織田家内での情報収集力が落ちて、社内政治に敗れたため、四国方面軍から外されたと思っていたのかもしれません。
明智家に漂う閉塞感の中、ふいに訪れた信長討伐の機会
SWOT分析から本能寺の変の動機に繋がりそうなものは複数ありますが、決定的なものがありません。
①佐久間信盛の事例のように貢献できない者は追放
②御ツマキの死により織田家中での政治力の弱体化
③織田一門衆の重用
④信長側近の発言力の増大
⑤長年担当していた四国方面軍からの完全な排除
ただ、これらの事象を繋いでみると、動機ぽいものが浮かび上がってきそうです。
御ツマキの死+側近の発言力+一門衆の重用=四国方面軍からの排除→貢献できない者は追放
光秀が、織田家における重臣の地位を維持するには、下記の2つのどちらかが必要です。
- 大きな武勲を挙げ続ける
- 信長とのパイプ役を持つ
しかし、各方面軍の活躍によって、光秀に残されている担当エリアは、九州と東北しかありません。
光秀としては、四国を制圧したあと、伊予から豊後へ上陸する構想だったと思いますが、このままでは九州も信孝及び信澄が担う事になり、大きな武勲や貢献の余地は無さそうです。
または、外様である光秀には、御ツマキの死後、織田家内部への介入するための人材やコネクションも乏しく、苦悩していた状況だったかもしれません。
この時期、明智家に未来に閉塞感が漂い始めていると、光秀は思っていたかもしれません。
そんなタイミングで、信長や一門衆、側近たちが、警戒する事もなく数百名ほどの兵力で本能寺と妙覚寺に駐屯しました。
各方面軍は、それぞれの担当地域に張り付いており、徳川家康は大阪を観光中で、唯一畿内に駐屯していたのが信孝率いる四国方面軍でしたが、急いで伊勢や伊賀方面から駆り集めた兵ばかりで、まだ軍としては足並みが揃っていない状態でした。
3C分析やSWOT分析のように、俯瞰で織田家が置かれている環境を眺めてみると、ふいに武力による織田政権の奪取という第3の選択肢が浮上したのかもしれません。
まとめ
畿内方面軍の司令官的な地位や丹波一国、複数の与力を与えられおり、重要な安土城や朝廷のある京に近いエリアを領地としている点からも、信長からの信頼はそれほど低くないと言えます。
しかし、3C分析とSWOT分析で見ていくと、本能寺の変直前における光秀には、織田家中での立場の揺らぎが見えてきました。
能力の高い光秀だからゆえに、織田家内での明智家の将来への暗雲や閉塞感を敏感に感じとり、それらが本能寺の変を起こす動機へと繋がっていったと思われます。
ちなみに、光秀の予測通りに、柴田勝家は上杉家による反撃を受け、滝川一益は北条家による攻撃で敗走し、織田信孝は寄せ集めの兵が逃散し、徳川家康は自国へ戻るのに必死となり、競合の誰もが動けなくなりました。
ただ、豊臣秀吉だけは中国大返しを慣行し、各地の織田軍を吸収して山崎まで至り、光秀の軍勢を破ります。
この状況の中で、光秀の予想を超えたのは、退却する秀吉の軍を追撃しなかった毛利家の小早川隆景と安国寺恵瓊たちの思惑でした。
光秀は、誰もが領土の拡張を狙って戦乱が続く事を願っていると思っていたようですが、小早川隆景たちが、天下統一の流れに逆らわずに、その枠組みの中で生き永らえる事を模索し始めていた事を見抜けなかったのです。
これは光秀の最大の誤算であり、しかも最大の脅威となる存在が、SWOT分析の機会(Opportunity)と見ていた毛利家の存在だった事が、この本能寺の変の面白いところだと思います。
SWOT分析を含めて、外部環境の認識については、期待値を大幅に削って冷静に評価をした方が良いという事が言えそうです。