急成長した組織の歪みが、最上家の改易を招く
最上義光は、独眼竜の伊達政宗の伯父で、没落していた名門の羽州探題の最上家を山形57万石の大大名にまで押し上げた人物です。
しかし、その知名度は、甥でライバルでもあった政宗の足元にも及びませんが、その政宗に引けを取らない能力を有していました。
義光は、敵の首級を挙げるほど武芸に秀でており、また内政面でも領内で一揆が起おきないような善政をしき、加えて、文化にも造詣が深く、教養も高いという理想的な戦国武将でした。
政宗における「独眼竜」のように、義光の「羽州の狐」という異名が浸透していてもおかしくないぐらいです。
後世に名があまり響いていないのは、政宗ほどブランド構築を意識していなかった事もあると思いますが、一番の原因は、孫の家信の時代で改易になってしまった事だと思います。
57万石の大大名が、義光の死後わずか8年で1万石に改易になり、その後に5千石に減封となり、以降は徳川家の旗本として存続することになりました。
この改易の直接の原因は、最上騒動と呼ばれる派閥争いでした。
その派閥争いを生んだ原因は、下記の二点と思われます。
- 豪族連合という古い体制のまま組織が急激に拡大した
- 平和になり組織としての共通の敵や目的を見失った
義光によって、最上家は組織として急激に拡大したものの絶対服従の関係ではなく豪族による連合体のままでした。
そのため、最上家による中央集権化が遅れ、家臣が大きな力を持ったままになり、それが内部に大きなひずみを生んでいきました。
そして、戦国時代も終わり自国の領土も確定してしまうと、組織としての共通の敵や目的が無くなってしまい、徐々に後継者争いや、それに絡んだ派閥争いへと突き進んでいきました。
今回は、最上家の組織的な問題について、考察したいと思います。
豪族連合という古い体制による組織の歪み
最上家は、最上義光の調略によって、周辺の勢力を取り込んでいく形で、集まった豪族による連合体でした。
基本的に、周辺の有力な豪族が、最上家の当主を推戴するという組織のため、1万石以上の家臣が16名いました。
逆に藩主の石高は相対的に低くなり、その発言力も制限される組織になっていたようです。
ちなみに、江戸時代では1万石以上が大名扱いなので、最上家内に大名を16家も抱えている状態でした。
しかも、伊達家最大石高の家臣の2倍近い石高を有す家臣もいました。
家臣の最大石高の比較 | |
最上家 | 伊達家 |
楯岡満茂 | 伊達成実(一門) |
4万5千石 | 2万4千石 |
本来であれば、藩主の権限を強力にするためにも、安定期に入ったタイミングで、有力な豪族を粛清または弱体化させるなどし、中央集権化を進める必要があります。
中国の漢の劉邦も、建国後には、有力な功臣(韓信、黥布、韓王信、彭越など)をかなり粛清しましたし、徳川家康も豊臣系の外様大名や有力な譜代大名の粛清を行いました。
しかし、最上義光は、現状の体制で大きな問題が起きなかったせいか、中央集権化を行いませんでした。
こういうタイプの組織によくあるのが、カリスマ性のある創業者の死後に統制が利かなくなり暴発を起こしてしまう事です。
まさに、義光の死後8年目に、有力家臣たちが「最上騒動」という御家騒動を起こして、最上家の改易を招いてしまいました。
共通の敵を失った集団の内部闘争
連合体という組織形態は、一つの目標の元でゆるやかに結束をしていますが、一旦その目標を失うと、途端に綻びを生じると言われています。
戦国時代が終わって共通の敵や目標を失った最上家臣団は、家督の承継に絡んで派閥争いを始めていきます。
- 長男の義康の暗殺
- 次男の義親の粛清
- 孫の家信と四男の義忠の争い
最上義光は、長男の義康を豊臣秀吉に、次男の家親を徳川家康に、人質として差し出しました。
最上家中では、義康が家督を継ぐものとして、義光の権限を一部承継するなど準備が進んでいましたが、秀吉が亡くなった事で事態が急変しました。
家康が政権を握った事で、最上家内では家督を徳川家康に近い次男の家親に譲ろうとした動きが活発化します。
長男の義康は高野山への退去を命じられて、その道中にて何者かに暗殺されてしまいました。
この義康の暗殺は不明な点が多く、義光ではなく、反義康派の家臣たちが独自の判断で勝手に行ったとも言われています。
その後、後を継いだ次男の家親は、大阪の陣のタイミングにおいて、豊臣方に近いとされる三男の清水義親たちを粛清します。
今度は、その2年後に、藩主の家親が突然死してしまい、幼少の家信(義俊)が父の後を承継します。(この突然死も毒殺の疑いがありました)
しかし、家信が若年で藩主として相応しくないと一部の家臣たちから不満が出て、義光の四男の山野辺義忠を担ぎ出して、改易を招く最上騒動へと発展していきます。
この御家騒動に対して、当初は幕府も穏便な調停案を示していたのですが、独立心の強い最上家の家臣たちが、頑なに幕府の調停案を飲まなかったため、結果として最悪の改易になりました。
家督の承継問題と絡んでいるとは言え、もう組織として制御不能に陥っていたようです。
まとめ
急成長する中で、寄せ集めるように作られた組織であろうと、一般的な組織であろうと、組織としてのモチベーションを維持するに、リーダーは、共通の理念や目的、目標を設定する必要があるのかもしれません。
最上義光も関ケ原の戦いまでは、「上杉家打倒」「伊達家打倒」「奥羽の制覇」などの目的があったと思います。
それらの元で、家臣達は結束できていたはずです。
しかし、関ケ原の戦いが終わり平和になった事で、絶対服従の関係ではなく連合体である豪族にとっては、自分たちが最上家を支えている理由が分からなくなったのかもしれません。
例えば、伊達政宗が、いつまでも幕府を仮想敵としていた事は、その本心は置いておいて、伊達家という組織を維持するための目的だったとも考えられます。
最上家や伊達家の事例からも、組織の維持には、共通の理念や目的が大事だという事が言えそうです。